講談社電子文庫    金と銀の旅 ムーン・ファイアー・ストーン1 [#地から2字上げ]小沢 淳   目 次  序章 最初の|厄《やく》|災《さい》  1章 クナの青き門  2章 月光の|廃《はい》|墟《きょ》  3章 ジョイアスの|魔《ま》|窟《くつ》  4章 |月《つき》|乞《ご》いの|踊《おど》り  5章 荒れ地の旅  6章 隊商の|密《みつ》|命《めい》  7章 シェクの花祭り  8章 銅仮面の|騎《き》|士《し》  9章 予言の真実   あとがき  かの地がもうどこにも存在しないのだと、彼らは夜空を見あげるたびに思う。  月は黄金と白銀のふたつしか昇りはしない。ときにはたったひとつしか。  かの地には三つの月が天上にあった。  三番めに数えられた青みがかった月が、今の彼らが踏みしめる地だ。  かつては月と呼ばれた地に彼らはいる。そして彼らはここで〈月の民〉と呼ばれている。  かの地にとってこの地は月であり、またこの地でもかの地は月にちがいなかった。  かの地は砕けちって|虚《こ》|空《くう》に消えた。  彼らの故郷、彼らが駆けぬけた地、青白き|肌《はだ》と|色《いろ》|淡《あわ》い髪の人々が住んだリウィウスの地は。  彼らは三番めの月にいる。ふたつの月が交差する地に、故郷をもたない放浪者として。  この地で見る月は大きく、ときには夜に昇った太陽ほどにも見えた。  どうやってこの地におりたったのか、今でも彼らは|漠《ばく》|然《ぜん》としかわからなかった。  禁断の|魔《ま》|窟《くつ》に踏み入り、時と空間の|歪《ゆが》みに存在する青白い花園を通りすぎたら、いつのまにかこの地にたどりついたのだ。  身を寄せあい眠る夜に、彼らはいつも思い出す。  死と隣りあわせの森と|洞《どう》|窟《くつ》を、青白き泉のほとりを。  夢うつつのうちに、|至《し》|福《ふく》のうちに、悪夢のうちに、くりかえしくりかえし、幾度も。     序章 最初の|厄《やく》|災《さい》  見わたすかぎりの灰色の地平だ。  わずかに散らばる|潅《かん》|木《ぼく》の茂みも白茶けて、灰色の中にうもれていた。  白と黒の|砂《すな》|馬《うま》が二頭、乾燥した土をまきあげながら駆けていった。ときどきうしろをふりかえりながら、速度をゆるめることなく砂馬たちは走りつづけた。  前かがみの姿勢で乗っているのは、ふたりの長身の若者である。  |編《あ》み|帽《ぼう》|子《し》を飛ばされないように片手で押さえながら、ふたりはただひたすら荒れ地を逃げていた。  帽子のひさしの下からのぞいている髪の色は、白い砂馬のほうがきらめく金、黒い砂馬のほうが|煙《けむ》るような銀だ。  どちらもこのあたりではめずらしい色あいだった。 「もう——追ってきませんよ」  黒い砂馬に乗っていたエリアードが、|相《あい》|棒《ぼう》に声をかけた。 「そのようだな、やっとあきらめてくれたか」  白い砂馬のほうのリューはふりむき、背後に馬の影も人影もないことを確認した。いささか乱暴に、彼は太い|手《た》|綱《づな》を引く。  砂馬は前脚をうかせ、急停止した。  リューはつんのめって、あやうくふりおとされそうになった。 「大丈夫ですか」  エリアードのほうはうまく|徐《じょ》|行《こう》体勢に入り、相棒に砂馬を寄せた。 「ああ、なんとか」  上体をかがめて白い砂馬をなだめながら、リューは応じた。 「地面にたたきつけられて痛いめをみるのも、今のあなたにはいい薬だったでしょうけどね」  エリアードは冷ややかに言った。けれど、つばのひろい編み帽子で隠れた青白い顔には、|安《あん》|堵《ど》とおもしろがっているような笑みがあった。 「ひどいな——まったくひどい言われようだ」  心底まいったように、リューは編み帽子をとり、|額《ひたい》にしたたる汗をぬぐった。  連日の強い陽射しにもほとんど日焼けしていない顔が、のびた前髪の下からあらわになる。  ひとときもやわらぐことのない陽光が、彼の|金褐色《きんかっしょく》の頭をまぶしい|橙色《だいだいいろ》にそめた。 「しばらくはひどく言われても我慢すべきですね——追っ手をさしむけられても当然だ、温かくもてなしてくれた市長の奥方に手を出すなんて」  もう一度、エリアードはうしろをふりかえった。  市長の追っ手らしい影はもう、灰色の地平に現れる様子はない。 「手を出す、だって、とんでもない——寝ていたらかってにのしかかってきたんだ。わたしは夢うつつで、何が起きたかわからないうちに、|亭《てい》|主《しゅ》が踏みこんできた」  リューは叫ぶように主張した。|相《あい》|棒《ぼう》ですらも|潔《けっ》|白《ぱく》を信じてくれないのかと、彼は|憤《ふん》|慨《がい》していた。 「こちらからは断じて指一本、ふれてないぞ。腕をからめて、|接《せっ》|吻《ぷん》の雨をふらせてきたのはすべて向こうだ」 「それでも押しのけようと思うなら、押しのけられたでしょう」  |編《あ》み|帽《ぼう》|子《し》をかぶったままのエリアードは笑いをかみころしながら、|非《ひ》|難《なん》めいた言葉をつづけた。 「寝ぼけていて、よく状況もわからなかったのに、押しのける力があるわけない。上にいるのが誰だかも知らなかったんだ」 「黒髪のふくよかな|年《とし》|増《ま》美女は、あなたの好みでしょう」 「ふくよかさにも限度がある。自分より体重のありそうな女が好みなものか」  情けなさそうにリューは声をおとした。  その様子を見て、エリアードは非難するのをやめることにした。 「すぎたことはもう何も言いません。これから先のことを考えましょう」  エリアードも編み帽子をとった。こちらは相棒の金と対になるような銀の髪をしている。美しい髪だったが、短く|無《む》|造《ぞう》|作《さ》に切られ、砂や|埃《ほこり》にまみれて、本来の色はかなり|損《そこ》なわれていた。 「あんまりだ」  リューはまだ言っていた。 「無事に逃げられただけでも天に感謝すべきですよ。奥方に手を出したうえに、とびきり上等の|砂《すな》|馬《うま》二頭を、それについていた荷物ごと奪って逃げたのですからね」 「まったく素晴らしいなりゆきだ、感謝しきれないくらいに感謝してるさ」  ふたりはゆる駆けで西の方角に進んだ。  前後左右はどこまでいっても灰色の荒れ地で、道どころか|目印《めじるし》になるものすら何ひとつない。  太陽の位置から、向かっているのが西の方角らしいとわかるだけである。  次の町までは、まだかなりの距離があるはずだった。  町と町のあいだには、広大な荒れ地をわたる旅人のための|井《い》|戸《ど》がいくつかあると聞いていたが、土地の案内人がいなければ見つけだすのは不可能に近い。  わずかな黄緑色を残している|潅《かん》|木《ぼく》の陰で、彼らは|水《すい》|筒《とう》の貴重な水を飲み、砂馬を休ませた。  |容《よう》|赦《しゃ》ない陽射しから守ってくれるその日陰は、ふたりで肩を寄せあうだけのごくささやかなものだ。  市長宅から出るとき、とっさに乗ってきた砂馬に|水《すい》|筒《とう》がくくりつけてなかったら、状況はさらにひどくなっていただろう。  門のところに|縛《しば》ってあった砂馬たちはすぐにでも出発するところだったらしく、たたんだ天幕や|糧食《りょうしょく》などの荷物が積んであった。  ちょうどいいとばかりに、彼らは逃げるついでにそれを|拝借《はいしゃく》してきた。  追っ手の矢が一本つきたった荷物袋を、リューは調べていた。 「何日くらいもちそうですか」  エリアードは|相《あい》|棒《ぼう》をのぞきこんで尋ねた。 「糧食は十日分ぐらいはある。だが水のほうはせいぜいもって三日だな」  水は途中の|井《い》|戸《ど》に立ちよって|補給《ほきゅう》するつもりだったらしく、水筒はふたつしかなかった。 「いちばん近い町まで、どのくらいでしたっけ」 「西のシェクまでは約十日、西南のヤズトまでは約二十日——よく慣れた案内人を|雇《やと》っての日数だが」 「絶望的ですね、クリブにもどって市長に命ごいしてみますか。あなたは|潔《けっ》|白《ぱく》だと奥方に証言してもらって」  |真《ま》|面《じ》|目《め》にエリアードは提案した。 「むだだろうな、市長のあの|剣《けん》|幕《まく》では」  クリブは小さなオアシスの市で、彼らはおたずね者として知れわたっているにちがいなかった。そっともどって、水や案内人を仕入れることはできそうもない。 「では——|偶《ぐう》|然《ぜん》に|井《い》|戸《ど》のあるところに行きあたるか、ひからびて倒れる前に次の町までたどりつけるか、万にひとつの恵みの雨を待つか、生きのびる道はそのうちのどれかですね」 「かぞえあげてくれたのはありがたいが、どれもあまり期待できそうにない道だな」  リューは頭をかかえた。市長の奥方のうっとりとした笑顔と流し目がうかんでくる。  路銀のたしになるだろうと持っていた東のフェルガ特産の|香辛料《こうしんりょう》の|束《たば》は、クリブで喜ばれて高値をよんだ。  とくに市長はその香辛料が好物で、彼らふたりは|歓《かん》|待《たい》され、市長の|館《やかた》に招かれた。  飲んでさわいでの|素《そ》|朴《ぼく》な|宴《うたげ》が夜どおしつづき、リューはあてがわれた部屋の寝台で酔いつぶれたまま眠ってしまった。  奥方がしのびこんできたのはその早朝である。  今から思いかえしてみれば、宴のときから、奥方は彼に近づこうとしていたそぶりはあった。  市長の招いた客だから、奥方が|率《そっ》|先《せん》してもてなしてくれるのだろうと、彼はあまり気にとめてなかった。  この地方に伝わるものがなしい曲が|三《さん》|絃《げん》|楽《がっ》|器《き》で|奏《かな》でられると、奥方は彼を|踊《おど》りに|誘《さそ》った。  ことわるのは|無《ぶ》|礼《れい》かと思い、彼はそれに応じた。足を前後に動かすだけの簡単な踊りで、とまどっていた彼も奥方のみちびくままについていった。  奥方は、背丈こそ長身の彼に少し及ばなかったものの、肩や胸まわりや腰は倍ぐらいの横幅があった。  薄い|面衣《ヴエール》ごしには、たっぷりと|化粧《けしょう》して|隈《くま》どった顔立ちが見てとれた。豊かな黒髪は波うって床まで届き、楽曲にあわせて舞いおどる。  踊るあいだに、奥方は自分のことを語った。  彼女はこの近辺を|牛耳《ぎゅうじ》る|遊《ゆう》|牧《ぼく》|民《みん》の|首長《しゅちょう》の娘で、オアシスの市と結んだ友好のあかしとして二十も年のちがう市長に|嫁《とつ》いできたと。  石づくりの館に封じこめられ、|嫉《しっ》|妬《と》深い夫に|監《かん》|視《し》されてもう十五年、いいかげんにうんざりしきっているとも言っていた。  かなり飲んでいた彼は、踊っているあいだに酔いがまわって、奥方の言葉など聞きながしていた。  市長が|殺《さっ》|気《き》ばしった目で、奥方と彼をずっと見つめていたことにも気がつかなかった。  そのまま彼は部屋にもどって倒れるように寝こみ、上に奥方の重い身体がのしかかるまで眠りこんでいた。  はっきりと目がさめたのは、三日月形に|湾曲《わんきょく》した大きな剣をふりかざした市長がなだれこんできたときだ。 「本当を言うと、わたしはあなたの|潔《けっ》|白《ぱく》を信じてますよ。さきほどは責めたりしましたが」  なぐさめるように、エリアードは|相《あい》|棒《ぼう》の肩をたたいた。 「そうか——では、ひとつ聞きたいが、あの奥方がわたしを押さえこんでいたとき、おまえは隣の寝台で何をしていた。とうに起きていて、わたしがもがいているのを、おもしろがって見ていたのではないのか」  リューは|希《け》|有《う》な金色の眼で、相棒をねめつけた。  対になるような銀色のやわらかな眼で、エリアードはそれを笑って受けとめる。 「おもしろがってはいませんが、|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》だと思ってながめてましたよ。あの奥方の|意《い》|図《と》など、|宴《うたげ》のときから誰の目にも明らかでしたよ。あんなにひどく酔っぱらっていなければ、あなたにも十分に予測できたはずだ」  反論できず、リューはまた頭をかかえこんだ。半分は二日酔いの頭痛から。 「いま考えるべきことは、どうやって次の町まで生きてたどりつくか、ですね。|後《こう》|悔《かい》と反省は町に着いてからにしましょう」  エリアードはもう一度、肩をおとしている相棒をなぐさめた。     1章 クナの青き門  それから三日のあいだ、ふたりは灰色の荒れ地をひたすら西に駆けた。  前を向いても、うしろを向いても、見えるのは雲ひとつない空と、ひび割れた地面だけである。  先に行くほど、|潅《かん》|木《ぼく》の茂みすらなくなり、砂漠のように乾燥した砂が足もとから吹きあがった。  最初のうちは軽口をたたいていたふたりも、三日めとなると口をきく気力もなくなっていた。  陽射しは光の矢のように、さえぎるもののないあらわな地上につきささり、熱で焼きつくした。にじみでる汗も、流れる前に蒸気となって立ちのぼる。  数日ぐらいならほとんど水を飲まないでも平気な|砂《すな》|馬《うま》ですら、次第にあえぎをもらすようになった。東の砂漠生まれの、もっとも|優《すぐ》れた種の砂馬のはずだったが。  |井《い》|戸《ど》のあるところに行きつくという|僥倖《ぎょうこう》はかなわなかった。  |水《すい》|筒《とう》はからになり、あとは絶望的にかわき死ぬのを待つばかりである。  昼はいつも果てしなく長かった。  夜になれば陽射しの攻撃からはのがれられるが、地面のほてりがやわらぐことはない。  空気が冷えないうちに短い夜は終わり、夜明けとともにまたすぐ攻撃が再開される。  ただ早く日が暮れることだけを願いながら、彼らは|黙《もく》|々《もく》と進んでいった。  しかし太陽はまだ空高くにある。 「……あれは」  |編《あ》み|帽《ぼう》|子《し》のつばをあげて、エリアードはつぶやいた。  ななめ前方に何か光るものが見えた。三日のあいだに何度もかいま見た|蜃《しん》|気《き》|楼《ろう》のたぐいかとも思った。 「なんだろう、柱のようなものがある」  リューは確信したように言った。  井戸か泉のあるところではないようだったが、彼らはそこに近づいていった。何にしろ、ひさしぶりに見た灰色の地面以外のものである。  それは柱ではなく、石づくりの大きな門だった。  がっしりとしたアーチ形の門だけが、左右にひろがる壁もなく、ぽつんと砂地にたっていた。  光っていたのは、門にはめこまれた|陶《とう》|器《き》の青い板である。小さな四角い板は石の部分を隠すように、門の表面をすきまなくおおっていた。  彼らは砂馬をおりて、青く|光《こう》|沢《たく》をはなつ門に歩みよった。  門のすぐ下は濃い影をおとす日陰になっている。  ささやかな|潅《かん》|木《ぼく》の茂みにすら出合わなかったふたりには、その日陰が天の恵みのように感じられた。  彼らは崩れおちるように座りこみ、燃えあがりそうな身体を|癒《い》やした。 「今日一日は、おかげで倒れずにすみそうだ」  陰となった側の陶器の板は、冷たくて|心《ここ》|地《ち》よかった。リューはそれにもたれて、ほてった|頬《ほお》を押しあてた。 「確実な死が、少し先のばしになるだけですよ。事態が変わったわけでもなんでもない」 「いやに|悲《ひ》|観《かん》|的《てき》だな。世の中そう捨てたものではないぞ。あきらめてしまうのはまだ早い」  あやすようにリューはささやいて、ぐったりした|相《あい》|棒《ぼう》の肩を抱きよせた。まだ熱を帯びている砂まみれの銀の髪を、彼は優しく|撫《な》でた。 「わたしたちはこの荒れ地で死ぬことはない。三日のあいだ、なぜだか一度として絶望したことはなかった。大丈夫だ、なんとかなる、きっと」 「いつからあなたは予言者になったんですか。まるで未来を予知したように確信をこめておっしゃる」  エリアードは力なくほほえんだ。彼のほうが相棒より、体力や|持久力《じきゅうりょく》の面では劣っていて、連日の陽射しにかなりまいっていた。 「|幾《いく》|多《た》の|修《しゅ》|羅《ら》|場《ば》をくぐりぬけてきた|勘《かん》さ。もっとひどい状況に追いこまれたこともあっただろう。たったふたりで、矢をつがえた大軍に四方から囲まれたことも」 「ああ、そうですね。名をささやくだけで、敵方の将を|震《ふる》えあがらせた、あのリウィウスのリューシディクともあろう人が、|年増女《としまおんな》の|浮《うわ》|気《き》にまきこまれたあげく、こんな辺境でのたれ死にすることはないでしょうね」  その言葉に、リューはあからさまな不快の表情をうかべ、相棒の肩をつきはなした。  今はもうない故郷の地で、彼は年若い勇猛な将として軍勢を|率《ひき》い、エリアードはその副将としてそば近くに|仕《つか》えてきたが、そんな過去がふたりの話題にのぼることはほとんどなかった。  過去のことをもちだされるのを、リューは何よりいやがっていた。正式な名前で呼ばれることすらも。 「それだけトゲのある|台詞《せ り ふ》が言えるなら、まだ数日はもちそうだな。安心したよ」 「元気なのは残念ながら、口だけです——もし、わたしが動けなくなったら、そのままほうりだして先に行ってください。ここは死に場所として、そう悪いところではありませんよ」  青い陶器板にもたれて、エリアードはまんざら冗談でもないように応じた。 「ときどきおまえを殴ってやりたくなるよ、|愛《いと》しいエリー」  ぐったりしている相棒を、リューはふたたび力づけるように抱きよせた。 「——妙な|絵《え》|柄《がら》だな」  |相《あい》|棒《ぼう》の肩ごしに、黒くうきあがっている|陶《とう》|器《き》|板《ばん》の模様のようなものに彼は目をとめた。鳥とも|獅《し》|子《し》ともつかない奇妙な動物が、どの陶器板にも焼きつけられている。 「どうしました、何か」  だるそうにエリアードは首をめぐらした。 「似ていると思わないか——リウィウスの|紋章《もんしょう》に」  あまり口にしたくない故郷の地の名をふりしぼるようにつぶやき、リューは陶器板の模様を指さした。 「獅子と|禿《はげ》|鷹《たか》の紋章、忘れたくても忘れられない旗じるしだ——おぼろげだからはっきりしないが、似ている」 「そう言われればそんなふうにも思えますが——でもこちらは禿鷹というより、とがった|大《おお》|蝙《こう》|蝠《もり》の翼のようですよ」  焼きつける技術が|稚《ち》|拙《せつ》なせいか、模様はどれもいびつで、|輪《りん》|郭《かく》がぼやけていた。  文字のようなものも、紋章の横に刻まれていた。こちらもリウィウスの文字に似てないこともなかったが、変形し、崩してあるのでほとんど判別がつかない。 「……ここより……に至る……の門」  おぼろげに意味のとれるところだけを、リューはたどってみた。けれどそれすら、正しい読み方なのかどうかもわからなかった。  無駄なこころみに思えてきて、リューは青い陶器板から目をそらした。 「考えすぎかもしれないな。おまえに昔の名を呼ばれたから、連想がリウィウスのほうにとんだのだろう」 「荒れ地にたたずむ古い遺跡と、わたしたちの失われた故郷の地とのあいだにどんなつながりがあると言うんです。よく似た紋章などいくらでもありますよ」 「まったくそのとおりだな。明日にもひからびて死ぬかもしれないというのに、よけいな連想で頭を悩ますのは馬鹿げている——今すべきことは、生きのびる方策を考えることだけだ」  リューは|編《あ》み|帽《ぼう》|子《し》をかぶり、日陰から立ちあがった。 「もう出発ですか、|弱《よわ》|音《ね》をはきたくはないが、きついですね」  門柱から動く気力のないエリアードは、|強靭《きょうじん》な相棒をうらやましそうに見あげた。 「あたりを見てまわるだけだ。これだけの立派な門が残っているのだから、ほかの遺跡もあると思わないか——おまえはここで休んでいればいい。|井《い》|戸《ど》の|残《ざん》|骸《がい》でもあることを祈っていてくれ」  陽射しよけの長い|外《がい》|套《とう》をはおって、リューは青い門をくぐりぬけ、しっかりした足どりで歩いていった。  砂土に埋もれているが、門の前からはまっすぐに石の道がつづいていた。  道の両側には、土台だけになった列柱や建物がかろうじて見わけられる。近くに行かなければ、それが遺跡であるとはわからなかった。  かなり大きな都だったらしく、道は十字にまじわり、はるか先までのびていた。  それだけが完全な形で残っている青い門は、荒れ地に同化しつつある古き都の|墓《ぼ》|碑《ひ》のようにみえた。  |井《い》|戸《ど》らしきもののなごりはいくつかあり、水路の|跡《あと》も見わけられた。しかし周囲の荒れ地と同じように、そこには一滴の水も残っていなかった。  かわきと疲労がぶりかえしてきて、リューは熱い石の道に|膝《ひざ》をついた。|相《あい》|棒《ぼう》のところまでもどる力も失われていくようだった。  ここが死に場所かと、あきらめに似た思いが、初めて彼の頭をかすめた。故郷のリウィウスの|紋章《もんしょう》を思わせる|絵《え》|柄《がら》のある門が、彼らふたりの墓碑にもなるのだろうかと。  どれくらいそうしてうずくまっていたか。  陽射しは、彼の上からつきさすように照りつけた。しかし彼の耳はかすかな音をたしかに聞きわけた。  かなたの空で遠雷が鳴っていた。  はっとして、リューは顔をあげた。  |灼熱《しゃくねつ》の昼はまだつづいていたが、遺跡のはるか向こうの空は|翳《かげ》りを帯びはじめている。 「——雨だ」  雨はここでは奇跡と同義語だった。  年に何度も降らない雨が、もっとも望んでいるときに降りだそうとしている。  陽射しが翳りはじめるにつれて、失われかけていた気力もふたたびわいてきた。  リューは、相棒の待つ青い門へ駆けだした。  門までたどりつく前に、上空は灰色にそまり、早くも冷たいものが落ちてきた。  彼は上を向いて、かわききった|唇《くちびる》をそれでしめらせた。天からもたらされたよみがえりの水だった。  立ちあがる気力もないほど、ぐったりとしていたはずのエリアードも、両手を天に向けながら信じられないというように歩みよってきた。 「どうだ、わたしの|勘《かん》があたっただろう、なんとかなったぞ」  ついさっき絶望しかけたことはおくびにも出さず、リューは得意げに叫んだ。  エリアードはかえす言葉もなく、ただ彼を見つめていた。  彼の金の髪は、降りだした雨であっというまに|濡《ぬ》れて、|額《ひたい》や|頬《ほお》に張りついた。  じゃまになった|編《あ》み|帽《ぼう》|子《し》をほうりすてて、リューは飛びついてきた相棒を抱きしめた。  喜びあうふたりの上に、いっそう強くなった雨が降りそそいだ。 「——予言者というのは訂正します。あなたには|雨《あま》|乞《ご》い|師《し》の|素《そ》|質《しつ》があるようだ」  水滴のしたたる|睫《まつ》|毛《げ》のあいだから、エリアードは真剣に彼を見あげた。 「べつにわたしが雨を呼びよせたわけではないよ」  リューは相棒を抱く腕に力をこめた。|心《ここ》|地《ち》よい雨は、水の幕のように彼らを包みこんだ。 「|偶《ぐう》|然《ぜん》にしてはできすぎです——まだ信じられない」  ひとりごとのようにエリアードはつぶやいた。  雨はどしゃ降りになった。見る見るうちに、灰色の荒れ地には黒っぽい水たまりが点々と生まれていく。 「|水《すい》|筒《とう》と——なんでもいい、雨水を受けられそうなものだ」  われにかえって、リューはやるべきことを思い出した。  まだ数日はつづく旅のために、水を取っておかなくてはいけない。おそらくもう降ることはないだろうし、いつ降りやむかもわからなかった。  門のところにつないであった|砂《すな》|馬《うま》の荷物から、彼らは受け皿になりそうなものをさがして、降りそそぐ水を溜めた。水筒に入れられる分だけでなく、|糧食《りょうしょく》入れだった袋にも、|煮《に》|炊《た》きの容器にも雨水を入れた。  そうしたことをみなすませても、雨はまだ激しく降っていた。  ふたりは|濡《ぬ》れて重くなった長い|外《がい》|套《とう》を脱ぎ、その下のごく薄い上着も脱ぎすてた。  目もあけていられないほどの強い雨はちょうどいい水浴びになった。たっぷりたまっていた砂と|埃《ほこり》がきれいに洗いながされていく。  まわりのすべては、滝の中から外をながめているかのように水の向こうでぼやけた。  ふたたび固く抱きあったふたりは、互いの肩ごしにその光景を見つめていた。 「このままだと、今度はおぼれ死にしそうだ——」  リューはつぶやいたが、|轟《ごう》|音《おん》のようになった雨にかき消されて相棒のもとまでは届かなかった。 「——なんですって」  けげんそうにエリアードは問いかえした。リューは声を張りあげる。 「荒れ地から海原のただ中にほうりだされたようだと言ったんだ」 「そうですね、舟が必要に……」  エリアードは言葉をとぎらせた。彼の銀の眼は細められ、それから大きく見ひらかれた。 「どうした、本当に舟でも現れたのか」  リューは相棒の視線を追った。  依然として視界は水の幕にとざされ、まわりのものは|輪《りん》|郭《かく》すらつかめない。 「舟ではありませんが——」 「何か、見えるのか」 「目の|錯《さっ》|覚《かく》かもしれない——けれど、|廃《はい》|墟《きょ》ではなく都の中にいるようだ」 「都、ここが?」 「あの青い門から、立派な門がまえにふさわしい石壁がつらなり——門の前からわたしたちの立っているところまで道がのびてます。道の両側には|彫刻《ちょうこく》入りの列柱が並んで、門をくぐってきた者たちを迎えています」  エリアードは水の幕に向けて、自分の見ている|幻《まぼろし》の都の輪郭を指でなぞってみせた。半分は想像だったが、口に出してみると本当にそう見えてきた。 「石壁、道、列柱——そう言われれば……」  くりかえしながら、リューはまばたきした。  はじめは雨しか見えなかったが、やがて青みを帯びた都の輪郭があざやかにうかびあがってきた。まぶたの裏に焼きついた幻のように。  道に沿って見わたすかぎりつらなる高い列柱群。|凱《がい》|旋《せん》した勇者たちを出むかえるように整然とまっすぐに並んでいる。  彼は|相《あい》|棒《ぼう》の身体を離して、見ているものを確かめるように列柱のほうへ歩いていった。  まっすぐのびた|彫像《ちょうぞう》の柱がたっているかにみえたが、さらに近づいてみると何もなかった。 「——雨が、小降りになってきた」  エリアードは黒ずんだ空を見あげた。  視界がはっきりするにつれて、|幻《まぼろし》の都は薄らいでいった。  雨は降りだしたときと同じ|唐《とう》|突《とつ》さでやんだ。  黒雲は大きく割れて、そのあいだから陽光がさしてくる。  方々に池ができていたが、原形をとどめない|廃《はい》|墟《きょ》は何も変わりはなかった。青い門だけが|瑕《きず》ひとつなく灰色の地にそびえている。 「あなたにも見えましたか」  列柱の台座のところに、エリアードは歩みよった。  リューは小さくうなずいた。 「ふたりして見たのなら、ただの目の|錯《さっ》|覚《かく》ではないようですね」 「なんだったのだろう、あれは」 「想像してみるならば、ありし日の都の姿がひととき|亡《ぼう》|霊《れい》のごとく現れたとか、雨の粒がはこんできた見知らぬ都のながめとか」 「詩的な表現だな」  リューは短く応じた。 「|幻《げん》|影《えい》の正体をあれこれ考える余裕ができたのも、恵みの雨のおかげです。門のところにうずくまっていたときは、二度と立ちあがれないかと思いましたよ」  あらためて|安《あん》|堵《ど》したようにエリアードは言った。  雨雲はきれぎれになり、陽射しは強さを増しはじめた。たまった水は蒸気となって立ちのぼり、|濡《ぬ》れた身体も見てわかるほどの早さでかわいていった。  散らばった衣類を台座の上にひろげ、重しの石をのせると、彼らは門のつくる日陰に退散した。せっかく補給した水分をまた奪われたくはなかった。  衣類も地面もすっかりかわいたころ、長い長い昼が終わろうとしていた。  さえぎるもののない荒れ地の夕日は、明日にもやってきそうな死を考えずにながめれば、雄大で素晴らしかった。  まっすぐな地平線に|真《しん》|紅《く》の光球となった太陽が掛かり、世界のすべてをまぶしくそめあげる。  昼中の|灼熱《しゃくねつ》のまぶしさとはちがい、やがて訪れる夜の|帳《とばり》をはらんだ|心《ここ》|地《ち》よいまぶしさだ。 「死と隣りあわせの生の輝きですね、美しいながめだ」  |相《あい》|棒《ぼう》の肩にもたれ、エリアードは夕焼けを見つめた。 「わたしたちのこの時も」  両の眼に夕日のきらめきを宿して、リューは応じる。 「もうこんな満ちたりた穏やかな時間も、もてないかと思っていました」 「死ぬまでにはまだ、いくらでももてるさ。わたしたちの時はいつも、死と隣りあわせだった、そもそものはじめから」 「過去のことは、いっさい忘れたんじゃなかったんですか」  笑みをふくませ、エリアードは小さくささやいた。 「リウィウスでの最後の夜だけは特別だ」  その絶望と|至《し》|福《ふく》の一夜を、リューは静かに思い出していた。彼とその忠実なる副将は、たったふたりでなすすべもなく、四方から軍勢に包囲されていた。 「——リューシディク様」  いつになく|感傷的《かんしょうてき》な彼が心配になって、エリアードはわざと正式な名を口にした。 「呼ぶな、昔の名を。様もいらない」  思い出からひきもどされ、リューは|相《あい》|棒《ぼう》をにらみつける。 「そのほうがあなたらしいですよ。とりあえず明日には死ななくてもすみそうですから、あまり|追《つい》|憶《おく》にひたるのはやめておきましょう。死を前にこれまでの半生をふりかえるようで、|不《ふ》|吉《きつ》な気がしますから」  故郷の地にいたときから変わらないほほえみで、エリアードは力づけた。もと|主《しゅ》|君《くん》で、今は旅の道づれとなっている相棒を。     2章 月光の|廃《はい》|墟《きょ》  ここで夜明かしすることを決め、彼らは|野《や》|営《えい》の準備をはじめた。  雨が降ったせいか、陽がおちてからの涼しさは今までの比ではなかった。  荒れ地は|藍《あい》|色《いろ》の|闇《やみ》に沈んだ。  星々が頭上に輝きだす。  黄色みがかった金色の月と、白銀の月のふたつが、天空から顔を出した。  月の出とともに、鈴の|音《ね》が|宵《よい》|闇《やみ》の向こうから響いてきた。  いくつもかさなりあう清らかなその|音《ね》|色《いろ》は、隊商の近づいてくる合図である。  決まった道もない広大な荒れ地では、鈴や鏡の反射などで互いの存在を知らせあうならわしがあった。 「東の方角だ——」  エリアードは暗がりに目をこらした。クリブから彼らを追ってきた者ではないかという思いが、頭をかすめた。 「鈴で合図してるんだから、追っ手ではないだろう」  |相《あい》|棒《ぼう》の心配をよみとって、リューは応じた。 「でもかなりの数だ、十人はくだらないでしょう」 「ちょっとした隊商なら、そのくらいの人数はいるだろう」  安心させるようにそう言ったが、リューは表情を引きしめて立ちあがった。武器というよりは日常のさまざまな用途に使っている短剣を確かめながら。  先頭の|砂《すな》|馬《うま》の影が闇の中から見えてきた。  そのあとからは何頭もの砂馬がつづいている様子だ。  矢をつがえたり、武装しているふうではなく、普通の隊商のようだった。  隊商は一列になり、まっすぐに青い門をめざしているかに見えた。  ふたつの月が高くのぼり、ほのかに地上を照らしはじめた。鈴の音は月にまで届くように響きわたった。  先頭の砂馬に乗っているのは、白髪を長くのばした老人だった。  隊長らしいその老人は、門のところに野営している彼らをみとめ、身軽に砂馬をおりた。  老人はしばらくふたりを交互に見つめていた。何か目的をもって調べるふうではなく、興味か|好《こう》|奇《き》|心《しん》をひかれたように。  たしかにふたりの|容《よう》|貌《ぼう》は目を引いた。  ほとんど日焼けしていない|肌《はだ》は白いというより青白く、月光のもとではいっそう青ざめてみえた。生まれたときは色白でも、|容《よう》|赦《しゃ》ない陽射しのもとではすぐ|赤銅色《しゃくどういろ》に日焼けするこのあたりの者の中ではひどく目立った。  金色と銀色の髪もめったに見ないものだった。  昼間は|金褐色《きんかっしょく》と灰白色にくすんでみえる彼らの髪は、月あかりのもとではほのかにきらめいてみえた。天上にかがやく金と銀のふたつの月が、そのまま地上におりたったかのごとく。  ともに背が高く、細身ですらりとしていたが、あらわになった腕や肩のあたりには戦士として専門に|鍛《きた》えあげたような筋肉がついていた。  それでいて|武《ぶ》|骨《こつ》なところはなく、粗末な装いをしていても、優雅で高貴な感じをただよわせている。 「これはめずらしい、ふたりきりで旅をしておいでか」  沈黙のあとで、老人は|礼《れい》|儀《ぎ》ただしく話しかけてきた。  まだ警戒していたリューも、そのやわらかな|物《もの》|腰《ごし》に疑いをといた。 「見れば、土地の方ではないようだ。案内人もなしで、このあたりを越えるのは|至《し》|難《なん》のわざかと思えるが」  |訛《なま》りのないきれいな発音で老人はつづけた。老人自身もこのあたりの生まれではないようだ。 「ちょっとしたいきさつで案内人とはぐれてしまったんだ。|仕《し》|方《かた》なくそのままふたりで旅してきたが、至難のわざと言われたように、正直なところ|途《と》|方《ほう》にくれていたところだ」  あとのことも考えあわせて、リューはこたえた。  彼らふたりではこの先もどれくらい、荒れ地をさまようことになるかわからなかった。なんとか隊商のうしろからついていくことを許してもらい、どこかの町まで道案内してもらえないかと彼は考えていた。 「われらはシェクとアルルスを経由して、セレウコアまで行く隊だ。方向がおなじならば、同行なさるといい」  老人は迷いもなく申しでた。  リューは驚いて、かたわらに立つ|相《あい》|棒《ぼう》と顔を見あわせた。  彼らのほうから頼みたいことだったが、ほんのふたことみこと言葉をかわしただけで同行を許されるとは思っていなかった。  めったに他の旅人と出会うことはないこの地方ならではの、あたたかい習慣かもしれなかった。  かわきをうったえる者には半分の水を、|飢《う》えている者には半分の|干《ほ》し|肉《にく》を、という言葉があるくらいだ。 「ありがたい申し出、喜んで受けさせていただきます。わたしたちもシェクに行くところでした」  エリアードはていねいに礼をのべた。  |砂《すな》|馬《うま》からおりてきた隊商の一行の視線が、彼のほうに集まった。  彼はそれを受けて、あでやかに笑みをかえした。  隊商は全部で二十人ちかくいた。ふたりをじろじろと観察していたが、おおむね好意的な視線のようだった。  エリアードがほほえむと、三人いた女たちはさらに熱心な|眼《まな》|差《ざ》しを向けてきた。 「シェクまではまだ八日はかかる。水なり|糧食《りょうしょく》なりが不足しているなら、遠慮なく言われるといい」  親しい仲間をむかえるように、老人はふたりの肩に手をおいた。老人も彼らにおとらず背丈があり、身体つきも|頑強《がんきょう》だった。 「水は今のところ大丈夫です。かわきで死にかけていたところに、今日の恵みの雨でしたから助かりました」  なにげなくエリアードが言うと、まわりに集まってきた者たちはざわめいた。 「この時期に雨は降らない。われわれをからかっているのか」  老人の|脇《わき》にひかえていた若者が口をはさんだ。よく日に焼けて、浅黒いというよりは黒に近い|肌《はだ》の色の若者である。  ずっと南東の地には、そんな黒っぽい肌の民族がいると聞いたことはあったが、まのあたりにしたのは初めてだった。 「でも、夕方近くに降ったでしょう。わたしたちも奇跡じゃないかと思いましたけど」  エリアードはけげんそうに言った。 「今日も昨日もひと月以上、一滴だって降ってない。夢でも見たんじゃないのか」  黒っぽい顔の若者の言い方には、とげがあった。彼らが加わるのを|迷《めい》|惑《わく》がっているようだ。  しかし老人は、黙っているように若者を押しとどめた。 「われらの隊がこの|廃《はい》|墟《きょ》の門までおもむいたのは、けっして|偶《ぐう》|然《ぜん》ではない。こちらの空で奇妙な黒雲を見たゆえ、本来の道筋をそれて確かめに来たのだ」  老人は静かに告げた。  隊商の者たちもそれは初耳だったらしく、|導《みちび》き|手《て》の老人を見つめた。 「奇妙な黒雲とは——?」  金色の眼を細め、リューは注意深く尋ねた。月あかりのもとでは、彼の|希《け》|有《う》な色あいの眼も、昼間より神秘的な光をはなっていた。 「このクナの廃墟の上あたりを、黒雲はすっぽりとつつみこんでいた。雨雲ならば移動しながら、もっと広い区域にあらわれるはずだ」 「現に雨は降った。まだ水たまりがそこかしこに残っている」  リューは門の向こうを指さそうとしたが、暗がりにしずんで見わけられなかった。 「ならばそうなのかもしれない。わしには理解しがたいことだが、黒雲はわれらを引きよせ、そなたたちにめぐりあわせた」  終わりのほうは聞きとれないくらいの小さな声で、老人はつぶやいた。そして隊商の者たちをふりかえった。 「今夜はこのあたりで|野《や》|営《えい》を張ろう。新しく同行するおふたりの歓迎として、シェクに運ぶ|酒《さか》|樽《だる》をひとつあけるがよい」  酒樽のところで、わっと歓声があがった。荒れ地を越える旅のあいだ、飲んでさわぐのを我慢していた彼らである。  思わずリューも口もとがほころびかけたが、|相《あい》|棒《ぼう》の視線にすぐ引きしめた。  飲みすぎるとろくなことはなかった。そもそも案内人もなくさまようはめになったのは、クリブでいい気になって深酒したのが|遠《えん》|因《いん》である。 「まだいくつか|釈然《しゃくぜん》としないところはありますが、とりあえずは喜ぶべきなのでしょうね」  エリアードは相棒にささやきかけた。 「昨日までの絶望的な状況からくらべれば、隊商が|盗《とう》|賊《ぞく》|団《だん》だったとしても感謝すべきだな」  まわりには聞こえないように、リューは小声で応じた。  小さな町ができたように、青い門のまわりはにぎやかになった。  立派な天幕がいくつも張られ、|煮《に》|炊《た》きのための|焚《た》き|火《び》が明るく燃えあがった。  料理番の者たちは手早く、|塩《しお》|漬《づ》け|肉《にく》を|串《くし》にさして焼きあげ、|沸《わ》かした湯で香り高い茶をいれた。|干《ほ》した|果《か》|実《じつ》や|酢《す》|漬《づ》けの野菜が皿にもられ、次々と運ばれてくる。  新たな同行者を歓迎するために、普段よりはかなり|豪《ごう》|華《か》な|献《こん》|立《だて》だった。  次の町で売る予定だったものも、特別に加えられていた。板張りの|蓋《ふた》を割ろうとしている|酒《さか》|樽《だる》も、高く売れるはずの一級品である。  ふたりは一行の者たちにかこまれて、ひさしぶりのまともな食事を味わった。  何人かがそばに来て、次々に自己紹介した。多くの者は|新《しん》|参《ざん》のふたりになみなみならぬ興味をいだき、親しくなりたいと思っている様子だ。  隊商とはいっても商人だけでなく、町から町をわたりあるいて|稼《かせ》いでいるという|踊《おど》り|子《こ》や、|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》、いかがわしげな|占《うらな》い|師《し》、まだ修業中だという|白魔術師《しろまじゅつし》もいた。 「どこか見どころがあると、ハルシュ老は隊に加えてくださる。よからぬ目的で旅しているのでなければ」  東方の国の貴族の|子《し》|息《そく》だと自称している、黒い巻き毛の若者が言った。  オラールと名のったその若者は、|見《けん》|聞《ぶん》をひろめるためにあてもなく旅をして、こんな西の辺境までたどりついたという。  ハルシュと呼ばれている|長《おさ》の老人は、天幕にこもって出てこなかった。若い者の|邪《じゃ》|魔《ま》をしないように、食事は天幕の中でとるのが習慣となっているそうだ。 「いろいろ隊商はあるけれど、ハルシュ老の隊の|居《い》|心《ごこ》|地《ち》は最高よ。商売で|儲《もう》けた者からは売り上げの一部をとるけれど、貧しいあたしたちには何も要求しないからね。儲かったときには|宿《やど》|代《だい》だってもってくれるし——あこぎなところじゃあ、売り上げの半分をとられるところもあるわ」  サイダと名のった、若い踊り子がつづけた。  もつれた量の多い黒髪を布で|縛《しば》った彼女は、親の決めた結婚がいやで故郷を飛びだし、それから気ままに踊りで暮らしているのだと言った。  サイダはしなやかな|肢《し》|体《たい》をした美しい娘だ。生き生きと輝く両の眼がとくに|魅力的《みりょくてき》だった。  まわりに集まってきた者たちも、新参のふたりにそそぐのと同じくらいの視線を、しばしば彼女に向けていた。  とりとめのない|噂話《うわさばなし》をするときの豊かな表情と、よく動く大きな|瞳《ひとみ》に|魅《み》せられて、リューもいつしか酒の|杯《さかずき》をあける手をとめ、彼女を見つめていた。  最初、そばに来たときはそれほど印象に残らなかったが、ずっと見ていると|次《し》|第《だい》にひきつけられるものを感じた。  エリアードはそんな|相《あい》|棒《ぼう》の気持ちの動きをすぐに読みとった。|仕《し》|方《かた》ないなと、小さくため息をつきながら。 「あなたがたは北の生まれでしょう。北の人は色白で、あまり日に焼けないというから」  |三《さん》|絃《げん》|楽《がっ》|器《き》をかかえた自称|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》が、話題をふたりのほうにもっていった。  まだ十代ではないかと思えるほど、線の細い、おとなしそうな青年だ。  ほかの者たちもむだ話をやめて耳をかたむけた。彼らはみな、|新《しん》|参《ざん》のふたりについていろいろ尋ねるきっかけをさがしていたようだ。 「たしかに北方から来ましたけれど、捨て子でしたから生まれはあまりはっきりしないのですよ」  慣れた口調でエリアードは応じた。さまざまなところでつくり話をしてきたから、でたらめの身の上話も板についていた。  真実はとても語れるものではなかったし、信じてもらえそうもないので、めったなことでは話さないことにしている。 「物心ついたときはタレースという小さな町にいましたね。そのうちに|養《やしな》い親がはやり病で|亡《な》くなったので、あてもなく運だめしの旅に出て、今にいたってます」 「こちらの人は——どうしていっしょに旅してるの」  いつのまにか隣に陣どっていたサイダが問いかけた。  親しげに横から尋ねられて、エリアードはたじろいだ。  リューはやや不快そうに、|相《あい》|棒《ぼう》と彼女の様子を見ていた。|魅力的《みりょくてき》な|踊《おど》り|子《こ》に目をつけたのは、こちらが先だとでも言いたげに。  そんな彼の視線を意識して、エリアードは踊り子に優しくほほえみかけた。 「彼も似たような|境遇《きょうぐう》で、タレースの町にいたとき知りあい、それ以来なんとはなく旅の道づれとなってるんですよ」 「なんとはなくって、どれくらいのあいだ?」 「知りあってからは、もう十年近くになるかな。いっしょに旅するようになってからは、そんなに何年もたってないけれど」  この程度ならいいだろうと本当のことを言ってしまってから、エリアードは|後《こう》|悔《かい》した。サイダは指を折って、数をかぞえていた。 「なら、知りあったのはほんの子供のころなのね。だってあなたたちは二十歳くらいに見えるもの」 「捨て子だから、正確な歳はわからないけれど——彼のほうはそのくらいで、わたしは二、三歳上だと思いますよ」  |仕《し》|方《かた》なくエリアードはごまかすのをやめた。 「あなたのほうが年上なの、こちらの人より」 「そうです、残念ながら」  横で|黙《もく》|々《もく》と飲んでいるリューは、それを聞いてかすかに笑った。  エリアードは|咎《とが》めるように、彼を見た。 「でも、こちらの人のほうが、ぞんざいで|威《い》|張《ば》ってるみたいだったわ、さっきから見ていると——あなたが年上なのに」  サイダは素直に感想をのべた。 「威張るためには、年齢よりもほかの要素が必要なんですよ」 「そうしたがる性格なのね、こちらの人は——威張りたがりの人はどこにでもいるもの」 「素晴らしい解釈ですね」  笑いながらエリアードがこたえた。  隣のリューはむせて、|咳《せ》きこんでいた。  本当の|素性《すじょう》を話せないのだから、年上のエリアードが敬語を使うわけを説明できるわけがなかった。 「わたしたちの年齢がそんなに気になりますか。一行に加わるには年齢の制限があるわけじゃないでしょう」  エリアードは話の|矛《ほこ》|先《さき》を変えた。 「あたし[#「あたし」に傍点]があなたの年齢に興味があったから、尋ねたのよ。あたしより年上でよかったと思ってるの。年下は頼りなくて、いやだから——この意味、わかってくれるでしょう」  |大《だい》|胆《たん》にサイダは、彼の肩に頭をもたせかけた。  オラールと名のった若者は見てわかるほどに青ざめた。  ほかの彼女の|賛《さん》|美《び》|者《しゃ》たちも驚いていた。  ばつが悪そうにリューは、|相《あい》|棒《ぼう》と、彼に寄りそう娘を見つめていた。  エリアードはその|眼《まな》|差《ざ》しをとらえ、口もとだけで笑みをかえした。 「女性の歳はわからないものですね、あなたがそんなに若いとは思わなかったな」  気軽にエリアードは受けながした。 「故郷を飛びだしたのが十四だから——十八、いいえ十九かな」  世なれて|成熟《せいじゅく》した女と、野生の|獣《けもの》のような手つかずの|乙《おと》|女《め》の|貌《かお》が、サイダの上で交互によぎっていった。  相棒がひかれたのもうなずけると、エリアードはこの|踊《おど》り|子《こ》の|魅力《みりょく》をみとめた。 「——ならば、わたしのほうが上ではないか。わたしが尋ねたときには二十歳をとうにすぎていると言ったのに……」  |憤《いきどお》りを必死に抑えているオラールは、ひとりごとのようにつぶやいた。正面きってサイダには文句を言えない様子だ。 「われらの気むずかしい|女《め》|神《がみ》の心をとらえるとは、たいしたもんだ、あんたは」  商人のひとりが口をはさんだ。 「女神の|恩寵《おんちょう》は月のようにうつろいやすく、気まぐれでもあります。明日になれば忘れているかもしれない。次の新たな興味の対象を見いだして」  自称|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》があとを受けた。  サイダは詩人をにらんで、いっそう強くエリアードにしがみついた。 「あたしは、月を見あげるのが好き。荒野を旅しているのも、ここで見る月がいちばん見事だから——このひとは銀の月が地上に現れたようにきれいだわ。月をあこがれて見つめるように、ひと目でこのひとに恋いこがれたの」  詩人のお|株《かぶ》を奪いたいかのごとく、サイダは歌うようにささやいた。月あかりにきらめくエリアードの銀の髪と眼にうっとりと|魅《み》|入《い》りながら。  銀色の月光のしずくからつくられたように、月あかりのもとの彼は青ざめて美しかった。 「ここクナの|廃《はい》|墟《きょ》には、うるわしい銀の髪の乙女にまつわる伝説があります」  サイダにおとらず、やはり彼に魅せられていた吟遊詩人は語りだした。  詩人はいちおう、|三《さん》|絃《げん》|楽《がっ》|器《き》をかかえてはいたが、つまびこうとはしなかった。 「その乙女の、最高の|絹《きぬ》|糸《いと》のごとくまっすぐな髪は、月の光を織りこんだごとく輝かしい銀色、その|涼風《りょうふう》のごとく|澄《す》みきった|瞳《ひとみ》もおなじ銀色、そのかんばせ[#「かんばせ」に傍点]は純白の花のごとく自然の|完《かん》|璧《ぺき》さをあらわし、その|唇《くちびる》はどんな|炎《ほのお》の宝石を|象《ぞう》|眼《がん》したよりも赤々と燃えあがっていた、と|後《こう》|世《せい》には伝えられています——まるで、あなたを賛美しているようでしょう」  詩人としては真剣にほめたつもりだったが、まわりの者たちはおかしそうに笑い、エリアードもしぶい顔をしていた。 「|乙《おと》|女《め》になぞらえられるのはいい気分じゃないな。女のように美しいといわれるのは、わたしにとってひどく不快だということは承知しておいてほしい」  声を低めて、エリアードは詩人をねめつけた。  |男《だん》|装《そう》の女だと思われて、からまれた記憶がよみがえってきた。彼自身はどこがそう見えるのかわからなかったが、ときどき不快な誤解を向けられることがあった。 「女のようだ、なんて言ってません。あなたはわたしより背も高いし、がっしりしてらっしゃるから、女になぞらえてみたことなどありません——ただ伝説の乙女はうるわしく、|讃《たた》える詩句があなたにもあてはまると言いたかっただけです」  傷ついたように詩人はうったえた。 「それで伝説の乙女は何をしたんだ。伝説というからには、何かこの|廃《はい》|墟《きょ》にまつわる話があるのだろう」  今まで黙っていたリューがおだやかに問いかけた。  エリアードのほうばかりに集まっていた視線が、思い出したようにかたわらの彼にもそそがれた。  もうひとつの月のように、彼もまた銀と対になる金の髪と眼をしていたが、|相《あい》|棒《ぼう》のような目をひくあでやかさには欠けていた。そのぶん、若々しい|精《せい》|悍《かん》さと高貴な感じが印象的ではあるが。 「話してよ、まだ聞いたことがないわ、その伝説は」  エリアードと、その伝説の乙女の姿をかさねながら、サイダは詩人にねだった。  詩人は気をとりなおして、まわりの者たちにほほえみかけた。 「クナの都は今でこそ見る影もない廃墟となっておりますが、二百年前には|交《こう》|易《えき》の|中継地《ちゅうけいち》として|栄《さか》えた都でした。多くの隊商や旅人たちが行きかい、世界じゅうのめずらしい品々があふれておりました」  ゆるやかに|朗《ろう》|々《ろう》と詩人は語りはじめた。  天にはふたつの月があり、砂土に|埋《う》もれた土台だけの廃墟を薄ぼんやりと照らしていた。高い立派な門だけが、不動の姿でたたずんでいる。  空腹もみたされ、酔いも|心《ここ》|地《ち》よくまわり、新たな同行者への|好《こう》|奇《き》|心《しん》も薄くなり、詩人の語る伝説に耳をかたむけるにはちょうどいいころあいだった。 「銀の髪の乙女は、北方の国よりもたらされた|貢《みつ》ぎ|物《もの》でした。しゃべれなかったのか、言葉がわからなかったのか、いっさい口をききませんでした。クナの都の王はその乙女を|寵愛《ちょうあい》し、彼女のために高い塔を建ててやりました。  それというのも|乙《おと》|女《め》は月ばかりをあくことなく見あげているので、いっそう月がよく見えるようにと思ってのことでした。塔はいつしか月の塔[#「月の塔」に傍点]と呼ばれ、その最上階にいる乙女は月の乙女[#「月の乙女」に傍点]と呼ばれるようになりました」  リューは雨の中でかいま見た都の|幻《まぼろし》を思い出していた。  今もおぼろげな月あかりのもとに、その幻はうかびあがりそうだった。雨の幕の向こうに|淡《あわ》く影をおとした都の|輪《りん》|郭《かく》が。 「王の寵愛が並みはずれたものになり、塔に入りびたりになるにつれて、月の乙女[#「月の乙女」に傍点]は月の|魔《ま》|女《じょ》とも|罵《ののし》られるようになりました——夜ともなると、塔の最上階からは、銀の髪をたらした乙女の姿が現れ、天上の月に向けて声なき声で呼びかけているのを、|都人《みやこびと》たちは幾度となく目撃しておりましたから」  あるはずのない塔をさがすように、|焚《た》き|火《び》をかこんでいた一行は|廃《はい》|墟《きょ》の上空に目をやった。  その舞台となった廃墟のそばで語るのは、どこかの町の|居《い》|酒《ざか》|屋《や》で語るのとは比べものにならないと、詩人はみなが聞きいっているのを喜んだ。  それに、月の乙女そのひとと見まごうような銀色の美しい若者が同席している。 「月の乙女[#「月の乙女」に傍点]を処刑するか、追放するように、都人たちは王に願いでました。王は耳を貸さず、反対にそうした都人たちを|牢《ろう》に入れました。荒れ地をわがもの顔で駆けまわる|騎《き》|馬《ば》|族《ぞく》の|横《おう》|暴《ぼう》がひどくなり、都を訪れる隊商が減ってきたことも都人の悩みの種でした。  それも月に祈る乙女がもたらした|災《わざわ》いではないかとささやかれ、王への不満は高まるばかりでした。勢力を拡大しはじめていた西の大国セレウコアの|脅威《きょうい》とあいまって、クナの都には|次《し》|第《だい》に|不《ふ》|穏《おん》な空気がただよいはじめました」 「クナはどうして滅びたんだっけ——いろいろな話があって、よくわからないのよね」  エリアードにもたれたまま、サイダはつぶやいた。彼の肩の線や感触が、乙女のものではなく、体格に恵まれた青年のものであるのを、指でなぞって確かめながら。 「都の滅びは、このうるわしい月の乙女がもたらしたものともいわれております。乙女は月にこがれて、夜ごと塔から月に呼びかけ、月も乙女にこたえたのだと——滅びの夜には、天上から月のかけらが落ちてきて、都を|跡《あと》|形《かた》もなく焼きつくしたのだといいます。  それは月の乙女が呼びよせたもので、乙女は実のところ|貢《みつ》ぎ|物《もの》として彼女を意のままにしたクナの王を憎み、彼女を|罵《ののし》った都人も憎んでいたのかもしれません」 「廃墟の中央には、今も大きな穴があいているというな。何か巨大なものが落ちてきた|跡《あと》のような——話を聞いて、そのうち機会があったら見てみたいものだと思っていた」  興味をかきたてられたようにオラールは言った。 「そんなものがあったのか」  リューはつぶやいた。彼が|散《さん》|策《さく》したのは門のごく近くだけで、穴らしいものには気づかなかった。 「なぜあの門だけが壊れずに残ったのかな」  |吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》に、リューは尋ねた。 「あれはクナの都が滅びてから建てられたものだと聞いてます。土台は都にあった門を利用したのでしょうけど」 「いったい誰が——?」 「さあ、|都人《みやこびと》の生きのこりじゃないでしょうか。都の|跡《あと》をしのぶために目印としてでも建てたのでしょう」  何か引っかかるものがあったけれど、リューはそれ以上、問いかけるのをやめた。  夜はふたりも彼らにまじって、天幕の中ですきまなく並んで眠った。せまくるしいことをのぞけば、これまですごした|野宿《のじゅく》よりも快適とはいえた。  何よりもとりあえずは、明日を思いわずらわなくてよくなったのはありがたい。  ふたりは天幕の|隅《すみ》のほうで向かいあわせになって横たわっていた。  まわりが寝しずまったのを確かめ、リューは薄い掛け布を頭の上まで引きあげた。 「あの娘が|誘《さそ》いにくることになってるんじゃないのか」  |相《あい》|棒《ぼう》の耳もとで、リューはささやいた。  隊長である老人の天幕と、女たちの天幕は別になっていて、風に揺れる布のあいだからわずかに見えた。 「ことわりましたよ、今夜はひどく疲れてるからと」  誘われたことは|否《ひ》|定《てい》しないで、エリアードは応じた。  みなが眠ってしまったら、青い門のところで会いましょうと、サイダは熱心にくりかえした。  いちおうそうした逢いびきは禁じられていたが、ハルシュ老はさばけた|人《ひと》|柄《がら》なので、問題が起こらないかぎりは、見て見ないふりをしてくれるとも。 「今夜は、か。明日の夜はかまわないというふくみを感じるな」  リューはおもしろくなさそうにつぶやいた。 「|妬《や》いてくださってるならうれしいんですけどね——本当はあなたがかわって誘いに応じたいと思ってるのでしょう」  サイダに向けていた相棒の熱心な|眼《まな》|差《ざ》しを知っているだけに、エリアードもとげをふくませて言った。 「思ってるな。わたしなら、あんないい女の誘いは、死にかけていないかぎりことわらないさ」 「わたしだって、この次は応じようと決めてますよ」  売り言葉に買い言葉で、ついエリアードはそう宣言した。  リューは暗がりで|相《あい》|棒《ぼう》を見すえながら、|眉《まゆ》を寄せた。 「彼女には|崇《すう》|拝《はい》|者《しゃ》が多いようだから、せいぜい|恨《うら》みをかわないように相手をするんだな。わたしとちがって目くばりのきくおまえのことだから、よけいな|忠告《ちゅうこく》かもしれないが」 「それはどうも、十分に注意しますよ」  ふたりはそれから口をきかず、寝いったふりをして目を閉じた。  しかし眠る前にやりあったせいか、今日一日のさまざまな出来事のせいか、疲れているのに寝られなかった。 「月の|乙《おと》|女《め》——あの伝説に出てきた——」  聞きとれないほどの小声でリューはつぶやいた。  横になっていても、神経を張りつめていたエリアードは驚いて身じろぎした。 「北の国からの|貢《みつ》ぎ|物《もの》だといっていたが、本当はどこから来たのだろう——どこの生まれだったのだろう」 「銀髪や、ほとんど白に近い色の髪は、ずっと南東のニサやアルダリアのあたりなら、それほどめずらしくはありませんよ。ただ|肌《はだ》の色は、この辺の人たちより浅黒いようだけど」  エリアードは相棒をいぶかしげに見た。 「ただの伝説で、深く考えることもないのだろうが、どうも気になる——そのせいで眠れないわけではないが」 「同族だったのではないかとおっしゃりたいのでしょう、わたしたちと——」  さらに声を低めて、エリアードはささやいた。ほとんど|唇《くちびる》の動きだけで。 「月の|乙《おと》|女《め》、月の塔、月のかけら——みょうに|符《ふ》|合《ごう》があうと思わないか」 「そうかもしれませんね、そうでないかもしれませんけれど」  掛け布をかぶって、エリアードは|相《あい》|棒《ぼう》の|頬《ほお》にそっと頬を寄せた。  リューはその銀の髪を指先ですいた。伝説の月の乙女と同じきらめきの髪、月光と見まごうような。 「——あなたが|誘《さそ》ってくださったなら、いくら疲れていても、天幕を抜けだすのですけれど——今からでも」  さきほどやりあったことをあやまるように、エリアードはそう言った。 「残念だが、よそう。わたしたちは新入りだ。夜中にふたりで抜けだしたりしたら、あやしまれる」  リューはわずかにほほえんで応じた。  その夜、ふたりはひさしぶりにリウィウスの夢を見た。  かの地の|紋章《もんしょう》に似た模様を|刻《きざ》んだ青き門がもたらした、過去の夢だったのかもしれなかった。     3章 ジョイアスの|魔《ま》|窟《くつ》  |万《ばん》|策《さく》つきて、リウィウスの第三王子は|焚《た》き|火《び》の|踊《おど》る|炎《ほのお》に手をかざしていた。  明日の朝にはすべて終わるだろう、この無意味な長い戦いも、ふたりの兄との|相《そう》|克《こく》も、彼の十九年の|生涯《しょうがい》も。  |下《しも》|手《て》の森一帯には、|槍《やり》や|鎧《よろい》のきらめきが|闇《やみ》|目《め》にも見わけられる。  布につつんで後方へ隠すのも無駄だということだろう。  |獲《え》|物《もの》は、高い|崖《がけ》を背にして|袋《ふくろ》の|鼠《ねずみ》だ。彼は味方の軍に狩りたてられる獲物だった。  しりぞくのはかなわず、進めば確実な死があるのみだ。  森の大軍を|率《ひき》いるすぐ上の兄は、戦いの最中に|謀《む》|反《ほん》をたくらんだとして、彼の|首級《しゅきゅう》を王城へ持ちかえることだろう。  そもそもこの隣国との国境争いさえも、彼を|亡《な》きものにするため、無理に引きおこされたものだ。  |夜襲《やしゅう》はない、と彼は判断した。  それだけの危険をおかす必要もないということだ。  かなわないまでも闇にまぎれてなら、彼はかなりの|痛《いた》|手《で》を相手に負わせることができるだろう。  彼は、リウィウスでも有数の剣の名手だった。もうその腕をふるう機会はないだろうが。  夜襲にしても、夜明けに襲ってくるにしても、彼は味方と戦う気はなかった。  焚き火の炎が、彼の金色の眼に映って燃えたった。表情は眠るように穏やかだったが、その|希《け》|有《う》な眼だけが野生の|獣《けもの》のきらめきをはなっていた。 「——|投《とう》|降《こう》しろ」  彼は静かに告げた。  かたわらにひざまずいていた副将は、いきなり|殴《なぐ》られたかのように顔をあげた。  |生《きっ》|粋《すい》のリウィウス人らしいその青白い|肌《はだ》は、月光のかげんか、内心の|動《どう》|揺《よう》をあらわしてか、いつもよりいっそう青ざめて見えた。 「夜が明けるまでに投降しろ。おまえひとりなら命は取られまい」  たったひとり、彼に最後までついてきた部下だった。  その肩にかかる銀の髪に、彼はそっと手をふれた。すぐに視線をそらして、ふるえる指先はにぎりしめられたが。 「もう十分だ、エリアード」  彼はうなだれる副将の名を正式に呼んだ。  いつもは略して、エリーと呼んでいたのを、あえてそう呼んだ。初めて彼のもとへ|伺《し》|候《こう》してきたとき以来のことだ。 「おまえは副官として、せいいっぱいのことをしてくれた、あらためて礼を言うよ——だが、もうやるべきことはない」 「わたしはもう、いらないということでしょうか」  エリアードは銀色の眼をあげた。  同じ|炎《ほのお》が照りはえても、この銀の眼はやわらかく|煙《けむ》るように光を帯びていた。表情は反対に|険《けわ》しく張りつめていたが。 「夜明けまでの残された時間をひとりですごしたい——おまえを巻きぞえにはしたくないんだ、わかってくれ」  遠くを見るようにリウィウスの第三王子は言った。|淡《たん》|々《たん》とした口調だった。  兄の|陰《いん》|謀《ぼう》と味方の裏切りを知ってから、彼はとうに死を|覚《かく》|悟《ご》していた。  国境の小ぜりあいに|赴《おもむ》く軍の指揮を命じられたときから、生きてもどれるとは考えてなかったように思える。  木々のとぎれた岩場で火を|焚《た》いて、ここが死に場所と彼は|諦《てい》|観《かん》していた。  すぐ背後にはそそり立った岩壁がせまってきている。  |退《たい》|路《ろ》は|断《た》たれていた、たったひとつの道をのぞいては。  たったひとつの退路。  彼も、その道があることは考えていた。このジョイアスの森に追いこまれてから、何度も。  ルグフ連山の一画にあたる森の絶壁には、禁断の地があり、生きてもどった者がいないと伝えられる|魔《ま》の|洞《どう》|窟《くつ》があった。  古代の火山活動で生まれたというその魔窟には、滅びさったはずの|恐竜《きょうりゅう》が|棲《す》んでいるとも、追放された|邪《じゃ》|悪《あく》な魔術師の|亡《ぼう》|霊《れい》がさまよっているともいわれていた。  近辺に住む者たちも、森の動物たちもその一帯にはけっして近づかないという。  魔窟に踏み入ってまで生きながらえてどうなるのだろう。  彼の下した結論はいつもそれだった。  恐竜か亡霊かに殺されるのならば、味方に首をさしだすほうが、いやしくもリウィウスの王子としてふさわしい|最《さい》|期《ご》にちがいないと。  彼の身分がそもそも、彼を死へと追いやったのだが、まだいくらかはそれに|誇《ほこ》りと|矜持《きょうじ》をいだいていた。 「リューシディク様——」  決心がついたように、エリアードは沈黙をやぶった。  山陰から月が顔を出した。  青みがかって輝く三番めの最大の月である。  他のふたつの月はすでに、上空から彼らを照らしていた。|藍《あい》|色《いろ》の|円《えん》|蓋《がい》にはめこんだ、ふたつの黄金と白銀の貴金属のように。  昇りつつある第三の月にくらべると、そのふたつの月は星々の仲間のように小さく見えた。 「わたしがあなたのもとに|伺《し》|候《こう》してから何年になるか、おぼえておいでですか」  |世間話《せけんばなし》をはじめるがごとく、エリアードは語りだした。|投《とう》|降《こう》しろと言われたことなど忘れたように。 「十五歳になったばかりのときだったから、もう四年になる」  いぶかしむように、リウィウスの第三王子は応じた。  言葉とともに記憶がよみがえってきた。新しい|従者《じゅうしゃ》として現れた二、三歳年上の、銀の髪と眼をした|美《び》|貌《ぼう》の若者を、そのときの驚きと|感《かん》|嘆《たん》とともに。 「四年ものあいだ、幸いにもおそば近くで|仕《つか》えさせていただき、副官にも取りたてていただきました。ティルウの反乱の制圧にも、ハーグの|遠《えん》|征《せい》にも、今回の国境争いにもつきしたがうことを許されて、身にあまる光栄でした」  別れの|挨《あい》|拶《さつ》をのべているのだと、リウィウスの第三王子は|合《が》|点《てん》がいった。  |投《とう》|降《こう》しろと命じたのは彼の本心からだったが、これが|今生《こんじょう》の別れだと胸にせまるにつれて、身を|裂《さ》かれるような痛みにおそわれた。  二度にわたって殺されるようなものだと、彼は|自嘲気味《じちょうぎみ》に思った。  精神の死と、肉体の死と、それぞれの苦痛を二度受けるのだと。  エリアードを失うことは精神的に死ぬことだったと、彼はこの場にいたって思いしらされていた。けれど自分の決断を変える気はなかった。  語りたい言葉は秘めたまま、運命を受けいれるつもりだった。 「もうわたしにやるべきことはないと、あなたはおっしゃった。四年にわたる部下としての仕事は終わって、わたしは任をとかれたと考えてよろしいでしょうか」  主君である王子のどんな表情も見のがすまいと、エリアードはひざまずいたまま真っすぐに彼を見つめた。 「そうだ、おまえはもう部下ではない、自由の身だ。わたしのそばに仕える義務はない」  内心の苦悩を見せまいと、彼はすべての表情をおしかくした。  |炎《ほのお》のあいまにうかぶのは、青ざめて|凄《せい》|惨《さん》な顔だった。|端《たん》|正《せい》であるだけに石と化したように見えた。 「わたしは何をするのも自由なんですね、本当に」 「自由だ、わたしのことを気にする必要はない」  エリアードは晴ればれとした笑みをうかべた。 「わたしは自分の意志であなたのもとに残ることを選びました。自由だとおっしゃったからには、わたしにもう投降しろと命じることはできませんよ」 「しかし、それは——」  とまどい|気《ぎ》|味《み》に彼はつぶやいた。 「いつまでもお|伴《とも》させてください。部下が必要ないなら、夜明けまでのお話し相手にでも。|邪《じゃ》|魔《ま》だとおっしゃるなら、|焚《た》き|火《び》の|炎《ほのお》くらいにじっと黙っていますから」 「無駄死にだ、おまえを死なせたくない」 「いいえ、わたしが選んだことです、どうかお気になさらないでください」  ふたりは手をのばせばふれられる距離をたもって見つめあった。対照的な金と銀の眼で、頭上にかかるふたつの月のように。 「帰りを待つ者はいないのか、家族は、恋人は」  先に視線をそらしたのは第三王子のほうだった。 「そういえば、四年ものあいだほとんど片時も離れずにすごしてきたのに、おまえのことは何も知らなかった。生まれも、親兄弟のことも、何ひとつ……」 「今からでもお話ししますよ。北のトゥラン領がわたしの故郷です。わたしは領主の十何番めかの|庶《しょ》|子《し》で、|厄《やっ》|介《かい》ばらいに養子に出されました。母親は身分いやしい|踊《おど》り|子《こ》で、物心つくころにどこかへ|出奔《しゅっぽん》してしまったといいます——親兄弟の誰もが、わたしのような子供がいたことをおぼえてすらいないでしょう。故郷で待つ人などいませんよ」  なんだか楽しげにエリアードは語った。  つられて第三王子はほほえんだ。ひさしぶりの笑みで、|頬《ほお》の片側がこわばっていた。 「あなたのほほえみは|素《す》|敵《てき》です、以前から思っていましたが、めったに姿を見せない曇り空の陽光のようですね——つづきはなんでしたっけ、帰りを待つ恋人はいるか、とお尋ねでしたね。残念ですが、そんな人はいませんでした。二十歳も越えているのに恥ずかしい話かもしれませんが」  そこでエリアードは目をふせた。うきたった声の調子もおとした。 「愛していた人はいます。ずっと一方的に愛してきました。十四歳のときに会ってから、長いあいだ、ひとことも想いを伝えることなく——死ぬのは恐れていませんが、それがたったひとつの心残りです」 「十四歳というなら、わたしのもとへ|伺《し》|候《こう》する前からだな——故郷に残してきた|幼《おさな》なじみでもいるのか」  変わらぬ穏やかさで第三王子は応じた。身を|裂《さ》くような痛みは遠ざかっていたが、時おり思い出したようにぶりかえしてきた。 「あなたはそのころ、十一か十二歳ですね」 「わたしのことはいい。やはりおまえは|投《とう》|降《こう》すべきだ。心残りだというならば、死んだつもりになって、その思いつづけた相手に想いを告げるといい——命令ではない、これは願いだ。わたしの分まで生きて、わたしのできなかったことをしてほしい」  わずかな笑みさえうかべて第三王子は言った。  エリアードは真顔になって、穴があくほど彼を見つめた。さがしもとめているものが見つからないかと駆りたてられるように。 「——決心がつきました、あなたにそう言われて」  エリアードはしなやかな動作で立ちあがった。 「早く行くといい、成功を祈ってるよ」  声は平静だったが、第三王子は顔をあげようとしなかった。  そんな彼を、エリアードはまた|飢《う》えたように見つめた。 「……そのままでお聞きください。あなたが助言してくださったから、死んだつもりで告げます——わたしが愛してきたのはあなた、ずっとあなたひとりでした」  高鳴る胸をしずめ、エリアードはほほえみながらつづけた。 「だからもう、わたしに|投《とう》|降《こう》しろなどとおっしゃらないでください。あなたとともに滅びるなら本望です。だってわたしにとっては|無理心中《むりしんじゅう》も同じですからね」  彼は|呆《ぼう》|然《ぜん》と、副将だった銀髪の青年を見あげていた。  思いもしない言葉だった。頭の|芯《しん》がしびれたように何も考えられなかった。 「——しかし十四歳のときには」  やっと彼はそれだけを口にした。 「おぼえてらっしゃらないのですね。わたしは十四歳のとき、育ての親に連れられて王城へ行ったことがあるのです。そのとき城の前庭で、黄金のたてがみと、|虎《とら》のような金の眼をもつ少年に会いました。  連れとはぐれ、きょろきょろしていたわたしに、少年は快活に笑いかけ、庭を案内してくれました。その少年が、あまり|民《たみ》に姿を見せない三番めの王子だと知ったのは、王城からもどったあとでした——わたしはあのときから、あなたの|虜《とりこ》です」 「そんなようなことがあった気もするが——おぼえていない」 「かまいませんよ、わたしの一方的な想いですから。|伺《し》|候《こう》したのも、その少年を忘れられなかったからで——育ての親のもとで、わたしは|白魔術《しろまじゅつ》を学んでいました。いずれはその道で、身を立てるつもりで。  けれどあなたゆえに、育ての親を|説《せっ》|得《とく》して、王城へ来ました。四年ものあいだ、あなたの近くですごせて、わたしは幸せでした、何も|悔《く》いはありません」  ふたたびエリアードはその場に|膝《ひざ》をついた。月光と見まごう髪を輝かせて、表情は照りはえるように晴れやかだった。 「驚かれているようですね、けっして|悟《さと》られないようにふるまっていましたから、無理もありませんけど——わたしの想いなどはどうでもいいんです、忘れてください。ただわたしに、|最《さい》|期《ご》までお|伴《とも》するのを許していただければそれでいいんです」 「……ありがとう、忘れはしないよ」  彼は片手をのばし、指先で彼の副将だった若者の白い|頬《ほお》と銀の髪にふれていった。  表情には何もあらわれていなかったが、追いつめられたネコ科の|猛獣《もうじゅう》のようだった眼の光はやわらいでいた。 「本当は、こんなふうに打ちあけるつもりはありませんでした。あなたはきっと——おぞましく思われることでしょう。わたしですらそうでしたから、押しこめてもわきあがる想いにとまどいつづけてきました。  長期の遠征に出る大隊の中ではめずらしくもないことですけど、わたしはああした連中とはちがうと思いたかった——結局はなんの変わりもないのかもしれませんが」 「おぞましくなど思うものか、わたしは——」  のばしていた手で、彼はエリアードを抱きよせた。 「同情ならば無用です。今までと変わらず、部下として接してください」  言葉とはうらはらに、腕をふりはらおうとはしないで、エリアードはまだ十九歳でしかない若者の首に腕をまわした。  |炎《ほのお》でほてった頬がふれあい、お互いにまわした腕の力は強められた。 「同情ではない、同情でこうしていると思うのか」  すぐ前にある金の眼をのぞきこんで、エリアードは小さく首を横にふった。  そこに見いだしたのは、彼の秘めた想いと同じものだった。とても信じられなかったが、たしかに読みとれた。 「いいえ——思いません」  |厳粛《げんしゅく》ですらある|声《こわ》|音《ね》で、エリアードはつぶやいた。  |愛《あい》|撫《ぶ》も、優しげなささやきすらなく、ただ彼らは長いあいだそうして抱きあっていた。  |焚《た》き|火《び》のはぜる音が世界のすべてだった。  巨大な青い影となった三番めの月が、ジョイアスの森を横ぎっていった。 「なぜ……」  何を尋ねようとしたかわからないままに、エリアードは口をひらいた。 「なぜ——」  もう一度、エリアードはつぶやいた。 「わずかでも、教えてくださらなかったのですか。わたしと同じで、おぞましいとお思いになったからですか」 「ちがう、そんなこだわりからではない。リウィウスの王城でも公然とおこなわれてきたことだ」  月のような銀の髪を|撫《な》でながら、第三王子はこたえた。 「では、いったいなぜ」  もっと早く知っていれば、とエリアードは内心でつづけた。残された時間はあと一晩かぎりではなかっただろうにと。  ただ|最《さい》|期《ご》のときまでそばにいられたらいいとだけ願っていたときにくらべれば、|贅《ぜい》|沢《たく》な|悔《く》やみごとにはちがいないが。 「わたしは主君だから、伝われば部下としておまえに命じることになってしまうだろう。|仕《つか》える少年たちに、次々と手をつけていたシモグ侯やリクシューイ兄上を見ていたせいもある——おまえがよく仕えてくれるほど、けっしてもらすまいとつとめたよ。  職を失うか、|牢《ろう》|獄《ごく》へほうりこまれるのがいやだというだけで、主君を愛するふりをしている彼らのようにしたいとは思わなかった」 「命じてくださったら、喜んで従ったのに」  エリアードはかすかにほほえんだ。  なぜ伝えてくれなかったのか、わかりすぎるほどにわかった。その|誇《ほこ》りたかさを、彼は誰よりも理解していた。 「今まで|呪《のろ》っていたわたしの半生に、祝福をあたえよう。これが最期だと|覚《かく》|悟《ご》したときに、わたしは十九年の|生涯《しょうがい》で、最高の|贈《おく》りものを受けとった。神がいるものなら、心からの感謝を|捧《ささ》げたい」  かがやく眼で、リウィウスの第三王子は言った。  |絶《ぜつ》|望《ぼう》のうちに|焚《た》き|火《び》を見つめていた|凄《せい》|惨《さん》な陰はどこにもなく、その金の眼にうかんでいた死の|貌《かお》は消えていた。  残された時間の短さを悲しんでいたエリアードは、ほとんどあっけにとられて彼を見つめていた。  初めて出会った少年のころはのぞいて、|伺《し》|候《こう》するようになってからは、彼のこんな明るい表情は見たことがなかった。 「時間を無駄にしたかもしれないが、遅すぎはしなかった。まだ、いくらかの時と道は残されている」 「ええ、そうですね、わずかですけれど——夢のようです。|無理心中《むりしんじゅう》ではなく、立派な心中ですね」  リウィウスの第三王子は声をたてて笑った。すぐに|真《しん》|摯《し》な|面《おも》もちにもどったが。 「心中など、するものか、わたしは生きたい——生きたいとこんなに思ったのは、初めてだ。ずっと自分の生に絶望していて、ただ|従容《しょうよう》と死を受けいれるつもりだったが、今はちがう——生きのびるために、戦いでもなんでもしよう。おまえをこの手に抱き、どうして簡単に死ねるものか、わたしたちの時はこれからだというのに」 「——どうなさるつもりですか」  喜びよりもとまどいで、エリアードは問いかけた。 「道はふたつある、これまでにもいちおうは考えていた。無理をして生きのびるほど、わたしに|執着《しゅうちゃく》がなかっただけだ——ひとつには、|包《ほう》|囲《い》の|手《て》|薄《うす》なあたりを|強行突破《きょうこうとっぱ》してみる道。もうひとつには、禁域の|魔《ま》|窟《くつ》に踏みこんでみる道だ」 「そういえば、ルグフ連山の魔窟はここから近いのでしたね」  エリアードは記憶をさぐった。|白魔術《しろまじゅつ》の|一《いっ》|端《たん》を学んだ彼は、その魔窟についてもいろいろ聞いたことがあった。 「どうだろうか。後者の道のほうが、まだ可能性があるように思える。|洞《どう》|窟《くつ》を通って連山のどこかに出られれば」  冷静にもどり、戦略をたてるように第三王子は言った。 「魔窟についての言いつたえは、ほとんど作り話ですよ。古代の|恐竜《きょうりゅう》だとか、|亡《ぼう》|霊《れい》や魔物がいるというのは。ただ——」 「何かあるのか」 「もどってきた者がいないというのは真実です。あの洞窟は、どこか別の世界に通じているのだとも言われてます」  第三王子は深くなった夜と、火の勢いがおとろえた焚き火を見た。そして彼を見つめている、|銀《ぎん》|粉《ぷん》をふったような美しい眼を。 「行ってみよう、夜明けまでには着けるはずだ。攻めてこられるのをただ待つよりは、いくらかましだろう」 「ええ、わたしはあなたの行くところへついていきます」  彼らはその場でまた固く抱きあい、ふりきるように身をもぎはなした。  岩壁を左手に見ながら、ふたりは森をわけいって進んだ。月が明るすぎるほど明るく、道を見失うようなことはなかった。  彼らの背後からは、ひっそりとついてくる影がいくつかあった。彼らの移動をうかがい、包囲を縮めるためにはなたれた一隊である。  リウィウスのリューシディクは、いつでも応戦できるように長剣を手にした。  |焚《た》き|火《び》に手をかざしていた少し前の彼とは別人のように、気力と|殺《さっ》|気《き》がみなぎっていた。  これは生きのびるための戦いだ、と彼は思った。わずかな生への可能性に|賭《か》けるための、愛する者とすごす時を勝ちとるための。  エリアードも副将として歴戦を|経《へ》てきただけあって、腕はたつほうだった。  ふたりで立ちむかえば、それほど大人数でない一隊なら、そう簡単にはやられないはずだ。  ただそれは|闇《やみ》にまぎれての話で、夜が明ければ、数の差にはとうていかなわない。  禁域は近づいてきたが、空は白みはじめていた。あれほど明るく足もとを照らしていた月の影もおぼろになってきた。 「|魔《ま》|窟《くつ》はあそこです」  エリアードは、黒々とした木々の向こうを指さした。 「急ごう、足音が増えてきた」  彼らは、|朝《あさ》|露《つゆ》に|濡《ぬ》れた|下《した》|草《くさ》を踏みしめ、駆けだした。  夜が明けはじめ、彼らは|包《ほう》|囲《い》されつつあった。もう足音をしのばせる必要もない。  |威《い》|嚇《かく》するように数本の矢が飛んできた。  矢は、彼らのかなり後方の地面に刺さった。  魔窟は|絶《ぜっ》|壁《ぺき》の岩を断ちわったかのように、|斜《なな》めの|亀《き》|裂《れつ》をあけていた。  禁域のしるしである魔よけの|奇《き》|怪《かい》な図形が、あたりの岩壁いっぱいに|彫《ほ》りこまれている。  暗黒の割れめからは、かすかな|蒸気《じょうき》といやな|臭気《しゅうき》がもれてきていた。  彼らはそこへ進むのをしばらくためらった。  白い光が森をみたしはじめていた。 「リューシディク様、お|覚《かく》|悟《ご》を」  横あいの木々から、数人の兵士が飛びだしてきた。リウィウスの|紋章《もんしょう》入りの|鎧《よろい》に身をかためた者たちである。 「|謀《む》|反《ほん》などたくらんでいない、わたしは無実だ」  彼は、味方兵の攻撃を受けとめた。  つきだされた|槍《やり》をかわし、その|鎧《よろい》と|兜《かぶと》のあいだへ|剣《つるぎ》をふるった。  声もなく兵は崩れおちた。  彼の動きは正確で、|容《よう》|赦《しゃ》なかった。  鎧の継ぎめへ、兜の合わせめへ、|篭《こ》|手《て》をつけてない腕や肩へ、彼は自分が苦痛をこうむっているかのように顔をゆがめながら、無駄のない一撃をあたえた。  エリアードも三人ほどを倒した。  襲ってきた数人の兵士たちを、彼らはふたりきりで、ほとんど傷も負わずに全滅させた。  ふたりはもはや迷うことなく、岩の|亀《き》|裂《れつ》に向かった。  矢と槍が、彼らを追ってきた。  ふりむきはしなかったが、禁域をかこむようにして多くの兵たちがせまってきているのがわかった。  数の上で圧倒している包囲軍は、すぐには襲ってこなかった。  数人の相手をあっさり倒したふたりの|憑《つ》かれたような強さと、白っぽい煙を|間《かん》|断《だん》なく|吐《は》きつづける|魔《ま》|窟《くつ》への|畏《い》|怖《ふ》ゆえだった。  魔よけの図形を|彫《ほ》りつけた領域に、ふたりは踏みいった。  エリアードはその半円を描くような岩場に力のようなものを感じとった。彼らを|退《しりぞ》けるものではなく、むしろ入ってきた者を保護する力だ。  |包《ほう》|囲《い》をせばめてきた兵たちは、彼らふたりに向けて|槍《やり》を投げた。  その内のいくつかは近くまで飛んできた。  けれどその図形の領域には、ひとつも届かなかった。直前で急に失速して垂直に落ちるのである。  リウィウスのリューシディクは、木々のあいまから姿を現す味方の軍の中に、白馬の武将を見いだした。輝く黄金の髪をした、堂々たる体格の若者を。 「——リクシューイ兄上」  彼に罪をかぶせ、ここまで追いたてたすぐ上の兄だった。みずからをおびやかす存在として彼を|執《しつ》|拗《よう》に憎み、|亡《な》きものにしようと|企《くわだ》てた|張本人《ちょうほんにん》だ。  彼は|亀《き》|裂《れつ》の前で足をとめた。この兄に背を向けるのはいやだった。 「もう逃げられはしないだろう、おまえだけは我が手で|討《う》ちとるつもりだ、裏切り者の|愚《おろ》かな弟よ」  部下から|強弓《ごうきゅう》を受けとって、リクシューイはそう呼びかけた。  顔立ちも、身体つきも、声の調子さえも、彼ら兄弟はよく似ていた。互いに|嫌《けん》|悪《お》をおぼえるほどに。 「大丈夫です、ここまでは届きません」  保護の力があることを知るエリアードはささやいた。  しかしリウィウスの第三王子の耳には入ってなかった。このときの彼は、確かめあった愛も、生きのびたいという願いも、頭になかった。  あったのは、ただ|理《り》|不《ふ》|尽《じん》に彼を狩りたて、味方に|剣《つるぎ》をふるわせ、手をくだして殺そうとする兄への|憤《いきどお》りのみだ。 「|科《とが》はどちらにあるか、その胸にきくといい、|卑怯者《ひきょうもの》め」  強弓を引きしぼる兄に、リューシディクは一語一語くぎるように告げた。  |照準《しょうじゅん》をあわせやすいようにまっすぐ向きなおって、彼はそっくりの金の眼で見すえた。  それに手もとが狂ったのか、禁域の保護が働いたのか、はなたれた太い矢はゆるい弧をえがいて岩場につきたった。  リクシューイは強弓をたたきつけた。  部下の前で|狙《ねら》いをはずした|羞恥《しゅうち》と、恐れもなく立ちむかった弟への怒りで、彼は青ざめた。弓の|弦《つる》をはじいた彼の指先は、まだ|瘧《おこり》のように|震《ふる》えていた。  |憤《ふん》|怒《ぬ》が波のように引いていき、リューシディクは兄に|侮《ぶ》|蔑《べつ》をこめて、冷たくほほえみながら|優《ゆう》|雅《が》に一礼した。 「さようなら、兄上」  彼はかたわらに立つ者の背に手をまわした。  |覚《かく》|悟《ご》はできているとエリアードは彼を見あげ、ゆっくりとうなずいた。 「——行こう」 「ええ、どこへでも」  ふたりはほほえみをかわし、きびすをかえして、白い煙の立ちこめる|魔《ま》|窟《くつ》へ恐れもなく入っていった。     4章 |月《つき》|乞《ご》いの|踊《おど》り  隊商は夜明けとともに出発した。  先頭の|砂《すな》|馬《うま》に乗ったハルシュ老は、|廃《はい》|墟《きょ》のただ中をつっきっていくように、一行をみちびいていった。  荒れ地の地理に精通しているハルシュ老は案内人を|雇《やと》わず、みずからの判断で道筋をえらんでいる。  老人の知恵と経験を信頼している隊商の者たちは、そのあとから列をなして従った。  後方はおもに、荷物を積んだ砂馬たちが綱で結ばれてつらなっていた。  しんがりの商人たちはその歩みを見はり、列をそれようとする砂馬に|鞭《むち》をふるっている。  新入りのふたりは、列の中央あたりに加えてもらった。  前のほうにいるサイダはときどきふりかえって、ふたりのほうを見た。  彼女のすぐうしろに陣どっているオラールは、そのたびに彼らをにらみつけてくる。  エリアードは困ったように下を向き、リューはそしらぬ顔をしていた。  クナの廃墟はひろく、こまかな石のかけらや土台がどこまでも散らばっていた。  水たまりはすっかり蒸発してしまって、昨日の雨の証拠はどこにも残っていなかった。  焼けつく陽射しと、かわききった砂土にあおられる旅が、今日もまたはじまった。  昨晩の話に出ていた廃墟の大穴に着いたのは、陽が高くのぼったころだ。  池が|干《ひ》あがったあとのような丸いすり|鉢状《ばちじょう》の大穴で、底のほうには|灰褐色《はいかっしょく》の水がわずかにたまっている。  ハルシュ老は最初の休憩の合図をおくり、それは順に後列へと伝えられた。  よく訓練された軍隊のように、三十頭ほどの砂馬はいっせいにとまった。  大穴をながめられるような小高い場所で、一行は砂馬を休め、簡単な食事をとった。 「昨晩、お話しした伝説も本当じゃないかと思いたくなるような光景でしょう」  自称|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》が寄ってきた。  彼は名を告げようとしなかった。まだ修業中で、名のるべき立場ではないというのが、彼の主張だ。隊商の者たちもみな彼を詩人としか呼んでいない。 「たしかに、何か|隕《いん》|石《せき》のようなものが落ちた|跡《あと》のようにも見えるな。水を失った貯水池のようにも見えなくはないが」  |編《あ》み|帽《ぼう》|子《し》を深くおろしたリューは応じた。  |頭《ず》|巾《きん》一枚で平気な地もとの者たちとちがい、陽射しの強い昼のあいだ、彼とその|相《あい》|棒《ぼう》はほとんど顔も見えないくらいに編み帽子をさげていた。 「あなたがたはそうしていると、昼間は太陽に圧倒されて隠れているふたつの月のようですね。夜にはあんなに輝いていたのに」  ふたりのぐったりした様子をながめて、詩人は笑った。 「いつもあんたがたは、このあたりを通るわけではないのだろう。わざわざ|廃《はい》|墟《きょ》にあいた穴を見物に来たのか」  隣に腰をおろした詩人に、リューは尋ねた。 「さあ、道はハルシュ老がいちばん知っていますから、こちらをまわっていくほうがいいと判断なさったのでしょう」  老人の命令で、商人たちの一部が|綱《つな》をおろし、穴の底におりていった。底にたまった水を|汲《く》みあげているらしい。  あのひどく|濁《にご》った水が飲用になるのだろうかと、ふたりは首をかしげた。  商人たちの作業の近くでは、サイダとオラールが激しくやりあっていた。オラールの非難を、彼女はこっぴどくはねのけているようだ。 「サイダがこちらを見ている、オラールもだ——困った人たちですね。そちらの銀の髪の方が彼女の|誘《さそ》いをうけ、それをことわったというのは、今朝のうちに伝わってきましたよ」  詩人は同情したように言った。 「あのふたりは恋人どうしだったのかい。それとも単なるオラールの片想いなのかな」  くだけた口調で、リューは問いかけた。肉をはさんで巻いた薄焼きの|麺麭《パ ン》を、|黙《もく》|々《もく》とたいらげている|相《あい》|棒《ぼう》を見やりながら。 「わたしの知るかぎり、サイダは自分から誰かを誘ったことはないし、当然ことわられたのもないはずですよ。ことわったことは数えきれないほどありますけれど」 「あんたもことわられた口かな」 「まさか——わたしは修業中の身ですから、そんな俗事にはかかわりません。どちらかというと、ああいった女性は|苦《にが》|手《て》ですし」  |帽《ぼう》|子《し》の下のリューの眼を、詩人はきっと見すえた。 「かんぐって悪かった。なんだかあんたの言い方が彼女を批判するようだったから」 「——ただわたしは、もめごとがいやなだけです。若いきれいな女性が隊に入ると、旅のあいだに、かならずといっていいほど不快なことがおこります。当の女性にそんなつもりがなくてもです」 「なるほどたしかにそういう面はあるな。けれど目の保養になり、気持ちがなごむという面も|否《ひ》|定《てい》できないぞ」  いつもの笑みをふくんだ言い方で、リューは応じた。 「わたしは詩人殿の意見に賛成ですよ。つらい荒れ地の強行軍に、よけいなことは考えたくない」  黙っていたエリアードが口をはさんだ。  夜明けに天幕をたたむ手伝いをしているとき、彼はオラールからあやうく|決《けっ》|闘《とう》を申しこまれそうになったのだ。  貴族の出だというオラールは、|新《しん》|参《ざん》|者《もの》にサイダを寝とられることは名誉の問題だといきりたっていた。 「本当にあなたは、彼女に関心がないのですか」  詩人はエリアードのほうを見た。 「ないと言いきれますよ。やっかいごとがついてくるなら、よけいにごめんだな」 「女嫌いなんだよ、わが|相《あい》|棒《ぼう》は」  感心しているふうの詩人に、リューは横からつけ加えた。 「そんなことはない、あなたが女好きなんだ」  すぐにエリアードは切りかえした。  リューは|否《ひ》|定《てい》しないで受けながした。  サイダはこちらに来たそうだったが、結局あきらめたようだ。オラールがそばで、まだうるさく言っている。 「オラールさんにはお気をつけください。ひとりの旅人として|放《ほう》|浪《ろう》しているつもりでも、どこか強い特権意識のある人ですから——わたしたち|庶《しょ》|民《みん》は、あの人の意志に従うのが当然だという思いこみを、悪いことに自分では意識しないでもっているのです」 「わたしは|一《いっ》|介《かい》の旅人以下ですからね、荒れ地で水もなく死にかけていた」  詩人の忠告に、エリアードは深くうなずいた。朝の|唐《とう》|突《とつ》な|決《けっ》|闘《とう》の申しこみには、たしかにそうした特権意識が見えかくれしていた。  朝からのたびかさなるオラールの|侮辱《ぶじょく》と、相棒の|困《こん》|惑《わく》した態度に、リューは|眉《まゆ》を寄せた。 「——わが相棒は、さる|大領主《だいりょうしゅ》の|子《し》|息《そく》だ。小国の自称貴族から下にみられるいわれはない」  声を低めてリューは告げた。  詩人もエリアードも驚いたように彼を見た。 「いったい、何を言いだすんです、あなたは——」 「わたしたちは捨て子だったが、そうした|噂《うわさ》もあったということだ。領主の落としだねではないかという」  なんでもないようにリューはあとを続けた。  エリアードはひそかに|安《あん》|堵《ど》の息をついた。安堵の次にはうれしさがこみあげてきた。  彼がオラールから不当にかろんじられていることを、リューは真剣に怒ったのである。 「捨て子なんてのは|嘘《うそ》で、あなたがたは本当にどこかの|高《こう》|貴《き》な方ではないのですか——最初お見かけしたときから、そうではないかと思ってました」  すっかり落としだね説を信じこんで、詩人はつぶやいた。 「身分のある者でも高貴でない者はいる。その反対もだ。貴族を自称すれば、高貴の|後《ご》|光《こう》がさすわけではない——われわれは死と隣りあわせの地で、同じひとつの|命綱《いのちづな》に従って旅をしている者だろう。以前の身分が、生きのびるのになんの役にたつんだ」  いつになく|真《ま》|面《じ》|目《め》にリューは言った。  詩人の|眼《まな》|差《ざ》しが|感《かん》|嘆《たん》から|崇《すう》|拝《はい》に変わったのを見て、彼は照れるようになめらかな白い|頬《ほお》を薄くそめた。すぐにいつもの、とぼけたような表情をとりもどしたが。  |廃《はい》|墟《きょ》の大穴をあとにすると、一行はまっすぐ西に向かった。  夕方近くには廃墟を抜け、今夜の|野《や》|営《えい》|地《ち》に着くころには、いくつものなだらかな丘の向こうに陽が沈んだ。  野営地にえらんだ場所には、緑の|濃《こ》い|潅《かん》|木《ぼく》の茂みと、小さな|井《い》|戸《ど》と泉があった。土地の者しか知らない水の|補給地《ほきゅうち》のひとつである。  何の|目印《めじるし》もない広大な地でここを見つけるのは、庭のごとくこのあたりの地形を知っていないと無理だった。  新入りのふたりも手伝って、一行はすばやく野営と食事の準備をした。  昨夜とちがって酒はふるまわれなかったが、|汲《く》みたての冷たい水が美酒のかわりになった。 「あたし、今夜は|踊《おど》るわ」  |焚《た》き|火《び》の前にサイダが進みでた。  月あかりのもとに、豊かでしなやかな|肢《し》|体《たい》が長い影をつくった。  無口で無表情な|壮《そう》|年《ねん》の商人たちも、この|魅力的《みりょくてき》な申しでには顔を輝かせた。  これまでも気が向くと、夕食後のつれづれに彼女は踊ってみせた。  気が向かないときはいくら頼んでもむだだったから、同行の者たちは彼女が自分から言いだすのをひそかに待ちこがれていた。  天幕にひっこんだままのハルシュ老と、従者の若者をのぞいたこの場の者たちは、めったにない夜の|娯《ご》|楽《らく》に、はじまる前から心うばわれていた。 「自称詩人、何か曲をやれよ」  |横《おう》|柄《へい》にオラールは命じた。昼のあいだも夕食のときにも彼はサイダのそばにいて、誰も寄せつけないようにしていた。  彼女のほうにも|誘《さそ》いをことわられた|自《じ》|尊《そん》|心《しん》の痛みがあったせいか、|機《き》|嫌《げん》をとりながらまとわりつく彼の存在を許していた。  オラールは今日一日ですっかり自信をとりもどし、彼女の心を勝ちえたと思っていた。詩人に対する|尊《そん》|大《だい》な言い方にも、その自信がほのみえていた。  詩人は|困《こん》|惑《わく》したように楽器を引きよせ、ためらった。  実のところ|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》と名のってはいるが、語りのほうはともかく、楽器はあまりうまくなかった。 「曲なんかいらないわ、|伴《ばん》|奏《そう》もね——あたしが自分で歌うわ」  サイダは詩人にほほえみかけ、見つめる者たちに|優《ゆう》|雅《が》なお辞儀をした。  彼女の動きには|発《はっ》|散《さん》する生気があり、それが美しい|肢《し》|体《たい》とともに見る者の目を|釘《くぎ》づけにした。  同行した商人のひとりの妻だという女も、いつも|面衣《ヴエール》をおろした|香料《こうりょう》売りの女商人も、彼女から目を離せないようだ。  指先までぴんと張りつめて、サイダは|踊《おど》りはじめた。  歌も|伴《ばん》|奏《そう》も何もなかったが、彼女の動きはそれだけ音楽的だった。  飾りといえるものは彩色した石を結びあわせた首飾りだけで、衣装も男物の旅装の腕と脚をまくりあげたものだが、月の光が|豪《ごう》|奢《しゃ》に彼女の身体をつつみこんでいた。  踊りもこの地方のものとはかけはなれ、どこの国のものでもない彼女独自の動きだった。決まった型もなく、ただ彼女は|即興《そっきょう》で、情感のおもむくままに踊っていた。  リューも他の者と同じように、声なき彼女の踊りを見つめていた。  昨夜のように|魅力的《みりょくてき》な女を見る目ではなく、荒れ地を|真《しん》|紅《く》にそめあげる夕陽の美しさをめでるような|眼《まな》|差《ざ》しだった。  だしぬけに、サイダはよく通る声で歌いだした。  |呪《じゅ》|縛《ばく》されたように彼女を見ていた者たちは、|落《らく》|雷《らい》でも受けたように飛びあがった。  彼女の故郷の言葉がまじっているのか、新入りのふたりには歌われている内容が聞きとれなかった。  |清《せい》|冽《れつ》でいながら、どこか|官《かん》|能《のう》|的《てき》な響きのある歌声だ。  何度も、同じ|旋《せん》|律《りつ》と詩句がくりかえされた。  サイダは息もみださず、歌いながら|踊《おど》った。ふたりの知らない言葉だったが、意味のわかった者たちもいたようだ。  うっとりと見つめていたオラールの顔色が変わった。  歌と歌のあいまに、サイダはまわりの者たちに向け、いたずらっぽく笑いかけた。 「何を歌ってるんだ」  隣にいた詩人に、リューは小声で問いかけた。 「——たぶん、求愛の歌なんだと思います。月のごとくうるわしいあなたを心から欲している、というような意味の」  詩人はためらいがちにこたえた。これはひともんちゃくおこるだろうと案じながら。  エリアードにはそれが聞こえていず、単なる|余興《よきょう》として踊りをながめていた。  リューは少し考えていたが、何も気づいていない様子の|相《あい》|棒《ぼう》に教えるのをやめた。  歌がくりかえされるにつれて、サイダの|眼《まな》|差《ざ》しはただ、エリアードにのみ向けられるようになった。  彼女は|次《し》|第《だい》に、彼の視線をとらえるためだけの目的で踊りはじめた。  まわりのざわめきがたかまると、彼女は|優《ゆう》|雅《が》な足どりでエリアードの前におもむいた。  踊りはやめないままに、彼女は彼の眼を見つめ、軽くお辞儀をした。 「受けいれてくださいますか、わたくしの歌を」  今度はわかる言葉で、サイダは語りかけてきた。  エリアードは驚いたが、今の歌と踊りの感想を尋ねてるのだと理解した。 「ええ、申しぶんないものでしたよ」  やわらかく彼は応じた。  求愛の文句がわかった者たちは声をあげた。ひやかしや、|嫉《ねた》みや、さまざまなものが入りまじった声だ。  サイダはそれをふりはらうように、彼の青白い手をさりげなくとった。 「わたくしたち踊り子には、どこの地でも共通のならわしがあります。|無償《むしょう》で踊りを|披《ひ》|露《ろう》し、それが客を十分に喜ばせることができたら、想いを寄せる相手に求愛の歌を|捧《ささ》げても許されるという」  ていねいな言い方で彼女は告げた。 「求愛——?」 「そうです。わたくしはその歌をあなたに向けて歌い、あなたはそれを受けいれてくださった——これでわたくしたちは歌の|絆《きずな》で結ばれました。今夜は誰も、わたくしたちを|邪《じゃ》|魔《ま》することはできません。わたくしの|踊《おど》りと歌に|魅《み》せられた者は誰も」  エリアードは|呆《ぼう》|然《ぜん》としていた。  何か言ってくれないかと|相《あい》|棒《ぼう》のほうを見たが、リューは複雑な笑みをうかべているだけだった。 「——そんなならわしは認めないぞ。誰が決めた約束ごとだっていうんだ」  |咽《の》|喉《ど》にもつれた声でオラールが叫んだ。 「あら、あんたは知ってるはずよ。前に寄った町でも、あたしの踊り子仲間がやっていたのを見たでしょう」  もとのくだけた口調で、サイダは陽気に言いはなった。 「あれは|宴《うたげ》の席の|余興《よきょう》だった、今のとはちがう」 「余興よ、これも、何もちがったりしない——余興じゃないにしても、あんたにとやかく言われるおぼえはないわ。あんたの態度を見ていると、まるであたしの恋人かヒモじゃないかと誤解されそうよ。あたしたちは、ともに旅している仲間にすぎないでしょう」  苦痛をおぼえたように胸を押さえるオラールを、彼女は冷ややかに|一《いち》|瞥《べつ》した。 「いいじゃないか、素晴らしい踊りを見せてもらったんだ。彼女の願いがかなうのを見守ってやれば」  若い商人があざけるように言った。彼はオラールに反感をいだいているようだった。 「わしとても、その好運な新入りには|嫉《ねた》みを感じるが、今夜は許すよ。サイダはわしたちにもいい思いをさせてくれたからな」  |髭《ひげ》に白いものがまじった年かさの商人もつづけた。 「さあ、|寛《かん》|大《だい》な許しが出ているうちに行きましょう」  サイダはエリアードの手をひいた。 「行くって、どこに」 「とぼけないで、あなたは申しでを受けてくれたじゃない」  当然のようにサイダはうながした。  エリアードはまだ困っていたが、オラールの|憎《ぞう》|悪《お》をこめた視線には対抗意識をかきたてられた。 「安心して行け、あとは引きうけてやる」  まわりには聞こえないくらいの声でリューがささやいた。  エリアードはそのとぼけた態度に|覚《かく》|悟《ご》をきめた。 「わかりました」  ほほえみながら、エリアードは立ちあがった。  サイダは踊りのつづきのような足どりでまわりにあいさつすると、彼の手をひいて、陰となっている|潅《かん》|木《ぼく》の茂みに|導《みちび》いた。  ふたりの姿が茂みの向こうに消えると、|焚《た》き|火《び》をかこんでいた者たちは、また思い思いに夜の時間をすごしはじめた。  どこか空気はうつろになったが、彼らは隠しもっていた酒をすすり、|剣《つるぎ》の手いれをし、近辺の|噂話《うわさばなし》をささやきあった。  リューもべつに変わったところはないように、隣の詩人と、数日後に着くはずのシェクの町について話していた。  しかしオラールだけが、黒い眼を|導《どう》|火《か》|線《せん》の火花のように燃やしていた。  サイダの冷ややかな言葉にうちひしがれていたが、|闇《やみ》にしずんでいる|潅《かん》|木《ぼく》の茂みを見つめてるうちに爆発寸前となっていた。  サイダは彼に|接《せっ》|吻《ぷん》くらいは許してくれたが、それ以上を求めると激しく|拒《こば》まれた。  |踊《おど》り|子《こ》をしながら町をわたりあるいているのだから、良家の娘のように|情操堅固《じょうそうけんご》だとは思えないが、彼女は意外に身もちが固かった。  そんなところも彼女の|魅力《みりょく》のひとつだと、オラールはそれほど無理じいもしないでおいた。  それを昨日会ったばかりの新入りに、ああもたやすく自分から|誘《さそ》いをかけるとは。  たしかに|神《しん》|秘《ぴ》|的《てき》で美しい若者にはちがいなかった。若い女なら、その見てくれにうっとりとなるような。  しかし|無《む》|一《いち》|文《もん》の、荒れ地で死にかけていた|放《ほう》|浪《ろう》|者《しゃ》にすぎないではないか。あんな男に熱をあげても、サイダのためになるわけがない。  オラールは故郷においてきたはずの身分や財産を、いつも最後のところであてにしていた。  サイダに|惚《ほ》れこむにつれて、彼女を踊り子から足をあらわせて、故郷に連れてかえりたく思っていた。  それはサイダのような者にとっては身にあまる幸せにちがいないと、彼は思いこんでうたがわなかった。  自由を求めて飛びだしてきたサイダは、何よりも|束《そく》|縛《ばく》されるのをいやがっていたのに|鈍《どん》|感《かん》な彼は気づいていない。  サイダのためだ。  オラールは商人風の剣を手にし、腰をあげた。  彼女を|堕《だ》|落《らく》から救いあげ、まっとうな道にもどすのが自分の役目だと、彼は|嫉《しっ》|妬《と》を正当化した。  そのままオラールは、真っすぐ潅木の茂みに向かおうとした。サイダをさとし、新入りに|決《けっ》|闘《とう》を申しこむために。 「——待てよ」  リューは彼を呼びとめた。  普通の声だったが、まわりの者たちは驚いたように顔をあげた。 「なにしに行くんだ、|不《ぶ》|粋《すい》な|真《ま》|似《ね》ならよしたほうがいい」 「不粋だと」  オラールはふりかえった。いきりたっていたので、顔が引きつっていた。 「幸せな恋人たちを|邪《じゃ》|魔《ま》しに行くのだろう。不粋というのはあたっていると思うが」 「邪魔ではない、取りもどしに行くんだ——サイダにだって、あとできっと感謝されるはずだ」 「彼女のほうから、|踊《おど》り|子《こ》の|作《さ》|法《ほう》にのっとって求愛したんだ。|亭《てい》|主《しゅ》でもないあんたが口を出すことじゃないだろう」  軽い身のこなしで、リューは彼の前にまわりこんだ。 「昨日今日、現れたくせに、知ったふうなことを言うな。わたしは彼女に求婚するつもりなんだ、真剣に」 「あんたたちの関係が、実際のところどうだろうと興味はない。わたしは|相《あい》|棒《ぼう》を代弁してとめているんだ。申しこみを受け、それを楽しんでいる相棒のところに、あんたが|決《けっ》|闘《とう》をしかけに行くのをとめたいだけだ」 「た、楽しんでるだと、この——!」  |嫉《しっ》|妬《と》にかられて、オラールは茂みに突進しようとした。  それをリューは上着をつかんで押しとどめた。 「放せ、放さないと|容《よう》|赦《しゃ》しないぞ」  頭半分くらい背の高い相手を、オラールは|殺《さっ》|気《き》をこめてにらみつけた。 「決闘なら、相棒にかわってわたしが応じよう」  なりゆきのように、リューは申しでた。はじめからそのつもりだったが。 「なぜだ、なぜあんたと」 「理由はいろいろある。今あんたが彼らの邪魔をするのは、どうみても不当なことだ。あんただって自分でわかっているだろう——しかし、この場でわたしたちが決闘すれば、みなにとってもいい|余興《よきょう》になるし、あんたも多少気が晴れるのではないか」  リューはまわりの同意を求めるように、|焚《た》き|火《び》のほうを見た。  詩人は心配そうな顔をしていたが、他の者はいい|退《たい》|屈《くつ》しのぎになるとながめている。 「やったらどうだ」 「踊りの次は決闘とは、今夜は|豪《ごう》|華《か》だな」  商人たちは口々に言った。 「真剣でやるか、あくまで余興ということで|鞘《さや》つきのままでやるか、どちらでもいい。あんたが選んでくれ」  話はきまったとばかりに、リューは|剣《つるぎ》をとった。彼もこのあたりの商人たちが護身用にもつような、やや三日月形の短めの剣を帯びていた。  オラールは相手をよくよくながめてみた。  たしかに|上《うわ》|背《ぜい》はあり、筋肉もよくついていた。しかし陽に焼けていないせいで全体的に青白く、ひよわな印象も受ける。  彼自身は専門の師について、剣術をふくむ武芸をひととおり習い、そのあたりの商人たちには負けない腕のおぼえがあった。  |決《けっ》|闘《とう》に応じなくても、相手が力づくでとめるだろうことはオラールにもわかった。 「真剣ではだめだ。ハルシュ老は旅のあいだに血を流しあうのは許さないから、勝っても負けても隊商から追いだされる」  |仕《し》|方《かた》なくオラールはそう応じた。 「ならば|余興《よきょう》でいこう——道に迷い、かわきに苦しむのは、わたしもたくさんだからな」  |屈《くっ》|託《たく》なくリューは笑った。ちらと|潅《かん》|木《ぼく》の茂みに視線をやりながら。  こんもりとした黒いかたまりとなっているそのあたりは、別世界のように|闇《やみ》と一体化していた。 「|粋狂《すいきょう》な奴だな。何がそんなに楽しいんだ」  |邪《じゃ》|気《き》のないリューの笑いに|毒《どく》|気《け》をぬかれ、オラールは剣をかまえながら問いかけた。 「ひとことで言えないな。恋人たちの時をまもる愛の番人になった、という得意さからかな——あるいはあんたと似てるのかもしれない。じっとしてよからぬ想像に苦しむよりは、決闘でもしていたほうがいくらかましだという……」  打ちあいがはじまって、最後のほうは聞きとれなかった。  |鞘《さや》に入ったままの剣は、こもったような音をたててぶつかった。  最初の数度の打ちあいで、オラールは青ざめた。  この謎めいた新入りは、素晴らしい技量の持ち主だった。恐ろしいことに、それでも今はオラールの腕にあわせて、手かげんしている様子だ。  |隙《すき》のない足はこびと、無駄のない腕の振り、一定以上は絶対に踏みこませないかわし方、余興として長く打ちあえるようなかげんした攻撃の|仕《し》|方《かた》。  どの動きも次の動きにつながり、すべてが計算しつくしたように正確だ。  基礎からしっかりと身につけ、数々の実戦を|経《へ》なければできないような名手の動きである。  オラールは|屈辱《くつじょく》よりむしろ|感《かん》|嘆《たん》をおぼえた。  あまり歳のかわらない相手なのに、彼の師だった歴戦の将軍よりも|老《ろう》|練《れん》だった。老練なうえに、若さからくる|強靭《きょうじん》な体力もそなわっている。  これほどのものをどこで身につけたのだろうと、オラールはあらためて興味をおぼえた。彼は貴族の|子《し》|息《そく》らしく、|決《けっ》|闘《とう》の|名《めい》|誉《よ》を重んじ、その力量には敬意をはらった。 「——もういい、わたしの負けだ」  オラールは|剣《つるぎ》を投げて、その場に|膝《ひざ》をついた。  リューはすべての動きをやめ、けげんそうにのぞきこんだ。 「手かげんして打ちあってくれなくてもいい。|余興《よきょう》としてはつづけるべきだろうが、わたしにも|誇《ほこ》りがある」  見ていた者たちは|互《ご》|角《かく》に打ちあっていたように見えたので、そんなオラールの態度に驚いていた。  商人たちは剣技にはそれほど通じてはいないので、ただなめらかで優雅な動きだと見ほれていただけだ。 「あんたは子供のころから|傭《よう》|兵《へい》でもしていたのか。すごい腕だ——いや、傭兵なんかじゃない。|得《え》|手《て》|勝《かっ》|手《て》な、才に頼った動きじゃない。きちんと基礎から師について習ったものだ、それも理論だけでなく血肉となって身についている」  リューはその評価の正しさに感心し、オラールの腕をとって立ちあがらせた。 「|相《あい》|棒《ぼう》がもてすぎるから、何度もこうして代理の決闘をかってでるはめになるんだ。あまりに|頻《ひん》|繁《ぱん》だから、傭兵になるより、腕はみがけるのさ」  あいまいにリューは受けながした。  決闘の|発《ほっ》|端《たん》など忘れたように、オラールは相手の素晴らしい技量ばかりをほめつづけた。サイダの|面《おも》|影《かげ》も、いっとき意識の奥に押しやったかのようだ。 「この旅のあいだだけでも、わたしに教えてくれ。できるかぎりの礼はする——ああ、あんたのように戦えたらなあ」  熱にうかされたような口調で、オラールは何度も頼みこんだ。リューがうるさくなってひきうけざるをえなくなるまで。  |潅《かん》|木《ぼく》の|生《お》い|茂《しげ》っているところに入りこんだエリアードは、|野《や》|営《えい》|地《ち》でそんな騒ぎがおこっていることをまったく知らなかった。  まわりを陰となった茂みがかこむ、やわらかな|下《した》|草《くさ》の地を選んで、彼とサイダは横たわった。  サイダは布で|縛《しば》った黒髪をとき、男物の旅装を脱ぎはじめた。  何か言おうとしたエリアードの|唇《くちびる》を、彼女は指先で封じた。 「あたしは月に向かって|踊《おど》りを|捧《ささ》げたの。銀の月のようなあなたが欲しいと願いをかけて——あたしの願いは聞きいれられたわ」  銀色の月のほうがおぼろげにあたりを照らしていた。  もうひとつの金がかった月は、木の陰になって見えなかった。  どうするべきか迷い、エリアードは|啓《けい》|示《じ》を求めるように、|闇《やみ》|空《ぞら》を見あげていた。隠れているほうの月をさがすように。 「許された時は短いわ、ともにこの|恩寵《おんちょう》の時を楽しみましょう」  豊かな黒髪以外に身につけるものがなくなったサイダは、|吐《と》|息《いき》だけでそうささやきかけた。  まだエリアードはためらっていたが、やがて彼女の浅黒い腕を引きよせた。  一糸まとわぬ豊かな身体が、彼の腕にすっぽりとおさまった。  彼女は|大《だい》|胆《たん》だった。  かさねた経験からくるものなのか、彼女が生まれもった性質からくるものなのか、彼には判断がつかなかった。  彼女の|巧《たく》みなみちびきに、彼も次第にためらいを忘れていった。  黒い髪の|房《ふさ》が、彼の|頬《ほお》や胸を|心《ここ》|地《ち》よくかすっていった。  上になって身体をゆらすサイダは、髪をみだした黒い影に見えた。  影は、彼の白銀の身体におおいかぶさり、低く高くうめいていた。  月光は彼女の浅黒い背中と、あおむけになった彼の青白い上半身にふりそそいだ。  地上の月のような銀の髪が、彼をとりまく後光のように、まばらな|下《した》|草《くさ》の上でひろがっていた。  ほっそりとはしていても筋肉がつき、やせてはいない彼の胸に手をおき、彼女は|咽《の》|喉《ど》をあらわにして|獣《けもの》じみた声をあげた。  彼は両手をのばし、彼女の腕のつけねから、たわわにみのった果実のようなふたつの胸を|愛《あい》|撫《ぶ》していた。  |魅《み》|惑《わく》|的《てき》なふた|房《ふさ》の果実が、彼の上でふるえ、つきだした。  けれど彼の銀色の眼は見ひらかれ、その向こうの月を見つめていた。  彼女ではなく月が、彼の身体をあたたかく|充《み》たしているようだった。今、この下草に横たわっている位置からは、金色のほうの月が見えた。  彼女の動きがいっそう激しいものとなり、彼の|脳《のう》|裏《り》にも月の光が散った。  眼をひらいたまま、彼はその動きにあわせていった。  サイダの|濡《ぬ》れた|肌《はだ》は、彼にぴったりとあわさっていた。まだ息をきらして、彼女は彼にしがみついていた。  彼はそれを横だきにして、軽く背中を|撫《な》でていた。 「はじめて見たときから、きれいなあなたが欲しかったわ……願いとは、心から願えばかなうものね」  かなり時がたって、彼女は口をひらいた。それまでどちらもずっと無言のままだった。 「むかし、月が欲しいって、だだをこねたことがあるの、子供のころに。あのきれいな輝く月の、かけらでも欲しくて——あなたを見て、あなたがどうしても欲しかったのは、そのときのやるせない思いがあったから」  何もこたえず、エリアードはただ苦い味の|後《こう》|悔《かい》をかみしめていた。  彼女とすごした時は|心《ここ》|地《ち》よいものだったが、そのさなかにも、のちの|余《よ》|韻《いん》の中にも、苦い思いはよぎっていった。 「あたしを見て——あたしの月の王子様」  サイダは彼の青ざめた|頬《ほお》に両手をあて、視線をあわせた。 「わたしは王子じゃないよ」  エリアードは静かにつぶやいた。 「さっきもあたしを見てなかったわ。どこか遠くを見ていた」 「月を見ていたんだ。ちょうど真上に見えたから」 「月を、なんて——クナの都の|乙《おと》|女《め》みたいね。きっと高い塔で、彼女は王に抱かれながら月を見ていたのだと思うわ」  彼女の連想に、エリアードは笑った。今度はあまり苦さのない笑いだった。 「また乙女になぞらえるのかい、昨夜のあの自称詩人ひとりでたくさんだな——べつにわたしは月にこがれてもいないし、月に帰りたいとも思わないよ。君とすごすのが、それほどいやでもないしね」  それを機に、彼は彼女を離しておきあがり、身づくろいをはじめた。  けれど彼女はまだそのままで、なごりおしそうに、細身でありながらよく|鍛《きた》えられた彼の青白い身体を見つめていた。ひとときわがものにできたけれど、けっしてとどめてはおけない大切な宝のように。 「そろそろもどろう——|獣《けもの》にでも襲われたと心配して、のぞきに来る者がいるかもしれない」  今にも誰かがやってきそうに、エリアードは茂みの|気《け》|配《はい》をうかがってみせた。  彼女は|仕《し》|方《かた》なく、けだるそうに身をおこした。 「でも意外だったな。君に首ったけのあのオラールが、どうしようもなくいいところで|邪《じゃ》|魔《ま》に入るのではないかと、内心は恐れていたんだが」  その軽口に、サイダも笑った。でもどうしてオラールは来なかったのだろうと、少し残念な思いもなくはなかった。     5章 荒れ地の旅  次の日もかわりなく旅はつづいた。|廃《はい》|墟《きょ》を越えたあたりから、ちらほらと|潅《かん》|木《ぼく》の薄緑が目につきはじめた。  隊商は長い列になり、ゆっくりと歩を進めていった。西に行くにつれて、暑さもいくらかやわらぎ、昼中もすごしやすくなっていた。  隣りあわせの者は、むだ口をかわす余裕も出てきた。列を|崩《くず》すのは禁じられていたが、長旅になると守る者はいない。  リューは列の前のほうで、自称詩人とオラールにかこまれていた。 「あんた、いくつのときからはじめて、あんなすごい使い手になったんだ? ——今から修業を積んで、どれくらいであんたに追いつけるものかな」  オラールは昨夜の|決《けっ》|闘《とう》以来、すっかり彼に|心《しん》|酔《すい》していた。  うつろいやすい女の心を追うよりは、武芸の|鍛《たん》|練《れん》にうちこんだほうがいいと、一夜にして|宗旨《しゅうし》がえしたようだ。 「数多く実戦を積むことだな。なま|半《はん》|可《か》な修業より、そのほうがずっと身につく——まあ、しかし、女がらみの決闘はへらしたほうがいい。のぼせあがった頭では、勝てるものも勝てないからな」  適当にリューは相手をしていた。|鋭《するど》い視線を感じ、なるべくうしろをふりむかないようにしながら。  エリアードはそれより後方で、サイダとともに|砂《すな》|馬《うま》を進めていた。彼女とたあいない会話をしながらも、彼は|相《あい》|棒《ぼう》の背中をにらみつけた。  昨夜、彼とサイダをおくりだしてから、リューは代理だといってオラールと決闘したらしい。  あとで商人たちから聞いた話では、激しい真剣な打ちあいだったという。  彼がもどってきても、リューはまったく無視したように、詩人やオラールと話しこんでいた。  やっと|隅《すみ》のほうでふたりきりになり、リューは何を言うかと思ったらこう尋ねてきた。 「どうだった、楽しめたかい」  エリアードはしばらく言葉を失っていた。まだ、|皮《ひ》|肉《にく》めいたその前の夜のほうがましだった。 「ひとに話すことじゃありませんよ。彼女にも失礼だ」  怒りをぶつけると、リューは不思議そうな顔をしていた。 「何を怒っている。立場としてなら、怒るのはわたしやオラールのほうだろう。おまえはわが身の幸運をかみしめながら、まわりの怒りがやわらぐのを待つ立場だ」 「あなたは怒っていないでしょう。感想をおもしろそうに尋ねてくるくらいだから」 「怒る理由などないな。|好《こう》|奇《き》|心《しん》はあるが」  すました調子でリューは応じた。  あまり声を荒らげるとまわりに聞こえるので、怒りをかろうじて抑え、エリアードはそのまま横を向いて口をきかなかった。  そうして夜明けとともに出発しても、ふたりは互いに近づかず、言葉もかわさなかった。  彼らのあいだに入る者たちもことかかなかった。  親しみをましたサイダは|無《む》|邪《じゃ》|気《き》にまとわりつくし、他の者たちもそうしたときにかぎって何かと彼らに話しかけたり、ものを頼んだりした。 「元気ないわね。今日はまだ涼しいほうじゃないの」  陽射しなどものともしないサイダが問いかけてきた。  昼の休憩をすませてから、エリアードはほとんど黙りこくっていた。 「疲れがぶりかえしてきたんだ。シェクまではあと何日くらいで着くのかな」  早くこのいまいましい荒れ地の旅が終わらないかといわんばかりに、彼はつぶやいた。  サイダの心を勝ちえて、旅のあいだも公然といっしょにいる彼はたしかに、一行の中でもっとも幸運な者としてうらやましがられる立場にいたのだが。 「あと四、五日よ。今度の旅は、あなたたちをクナの|廃《はい》|墟《きょ》でひろったこと以外は、すべて予定どおり、うまくいってると思うわ」 「君たちに出会わなかったら、まだ廃墟のあたりで迷っていたかもしれない——荒れ地で|朽《く》ちはてるよりは、きっと今のほうがましなんだろう」  いろいろ考えることができるのも|当《とう》|座《ざ》のさしせまった危険がないせいかと、エリアードは気をとりなおした。  |相《あい》|棒《ぼう》のあのとぼけた冷たい態度は、今にはじまったことではない。 「——あたしのことで|喧《けん》|嘩《か》したの、もしかしたら」  |編《あ》み|帽《ぼう》|子《し》の下から、サイダは彼をのぞきこんだ。  朝から考えていたことを見すかされたように、エリアードはたじろいだ。 「喧嘩——いや、別に喧嘩などしてないよ」 「でも、近づこうともしないじゃない。最初は|双《ふた》|子《ご》みたいにくっついてたのに」 「お互いに気まぐれなんだ。そのときどきに応じて、くっついたり離れたりする」  彼は苦笑いした。 「あたしのせいじゃなければいいわ。あのひとの熱のこもった視線を感じないわけじゃなかったから、少し気になって……」  ためらいがちなサイダの言葉に、彼はあらためて怒りをおぼえた。  最初の夜に、リューが彼女に向けていた|眼《まな》|差《ざ》しがありありとよみがえる。 「君の|魅力《みりょく》にひかれた男たちが|醜《みにく》くいがみあっても、気にすることはない。|勲章《くんしょう》のひとつとして取っておくといいよ」  |手《た》|綱《づな》を引きしめて、エリアードは|相《あい》|棒《ぼう》のうしろ姿を見つめた。 「あなたたちが離れたのは、ひとつにはいいことだと思うわ。昨日と今日で、あなたたちはすっかり隊商にとけこんでしまったもの。最初のようにいつもふたりでいたら、ほかのみなも警戒したでしょうから」  力づけるようにサイダは言った。  よく事情を理解していたわけではないが、彼がどこかしずみこんでいることを彼女は、直観的に感じとっていた。 「知りあってから十年になるって言ってたでしょう。そんなに長く友情をつづけられる|秘《ひ》|訣《けつ》はなんなの」  明るく彼女は尋ねた。 「そんなことも言ったかな。どうもしゃべりすぎてるようだ」  サイダのつぶらな黒い眼を見ながら、彼は小さくつぶやいた。 「あなたはいつも謎めいてるわ、あたしたちとはちがったところに立っているみたい——そんなところにひかれたのだから|仕《し》|方《かた》ないけど、クナの都の王さまのせつない気持ちがわかるわ」 「またわたしをクナの|乙《おと》|女《め》になぞらえたいみたいだね」  彼の口調は冷ややかになった。サイダはすぐそれを感じとった。 「あの失礼な詩人のように、あなたを乙女として見たいわけじゃないのよ。たしかにほとんどの女よりも、あなたはきれいだけど」 「ほめられるのはうれしいが、自分の|容《よう》|貌《ぼう》はあまり好きになれない——女とまちがわれたり、女のようなあつかいを受けるのはうんざりしてるんだ」 「目がふし穴なのよ、そういった人たちはみな——見かけはともかく、あなたの中に女っぽいところはないと思うわ」  彼女の真剣な言葉に、エリアードはまた言いすぎたことを|後《こう》|悔《かい》した。 「女らしいという特質がきらいなわけでも、おとしめているわけでもないんだ。わたしを女になぞらえてみた者たちの、相手の意志をかろんじた|横《おう》|柄《へい》さや、彼らの欲情をみたすのが当然だといわんばかりの|傲《ごう》|慢《まん》さを|憎《ぞう》|悪《お》しているだけだ——でも、これは考えてみれば、君たちのような本当の女が、日常で味わっていることなのかもしれない。そうならば、わたしの|苛《いら》|立《だ》ちなど、ささいなものだ」  サイダは黙って彼を見つめていた。なんといって応じていいか、|途《と》|方《ほう》にくれているような表情で。 「ほら、またしゃべりすぎた」  彼は今日はじめての笑顔を見せた。  サイダと話しているあいだに、昨夜から彼をつつみこんでいた|陰《いん》|鬱《うつ》な思いは|次《し》|第《だい》に遠のいていった。 「なんでも話して、なんでも聞きたいから」  甘えるように彼女はうったえた。 「若い娘は、相手に聞いてもらうほうを喜ぶと思っていた——たいがい、彼女たちは自分にしか関心がないようだから」 「あまりあなたが謎めいてるからだわ、きっと」 「わたしは西に向かっていた旅人のひとりで、それ以上のことは何もないよ」 「若い娘をおおぜい知っているような口ぶりだったわ。旅のあいだに、なぐさめを求めた娘たちはどのくらい」  |無《む》|邪《じゃ》|気《き》さは消え、少しうらめしそうにサイダは問いかけた。 「答えられるほどおぼえてないな。どちらかというと、女好きの|相《あい》|棒《ぼう》をとめる役まわりが多かったから」 「シェクに着いて、この隊商の旅も終わったら、あたしのことも忘れてしまうのでしょう。ほかのゆきずりの娘たちと同じように」  彼は困ったように彼女をながめた。 「旅のあいまに、ゆきずりの女と遊ぶような楽しいめには、残念ながらほとんどあったことはないよ。ひどい誤解があると思うな」  距離をおかれたことに気づいて、サイダは黙った。  すぐ近くに見えながら、実際にはけっして手の届かない月のようだと、彼女はあらためてうらめしく思った。それが彼の|魅力《みりょく》だから|仕《し》|方《かた》がないと、いつもの結論に落ちつくのだが。  サイダは自分でも、いったい彼に何を求めているのかわからなかった。  昨夜、|潅《かん》|木《ぼく》の茂みの中で、ほんのひとときだったが、欲していた月のかけらを手にした。けれど、いったいそれからどうしたいのかは考えてなかった。  次の|野《や》|営《えい》|地《ち》での夜は、|踊《おど》りや|決《けっ》|闘《とう》などの|余興《よきょう》はなかった。  そのかわりのように、オラールが新入りの一方から剣術を教わっている様子は、商人たちの|退《たい》|屈《くつ》しのぎの見せものとなった。  オラールは基礎をのみこんでいるし、筋もよかったので、リューも教えることを楽しんでいた。  右の|脇《わき》があまいとか、足の踏みこみがたりないとか、見物人は無責任な|野《や》|次《じ》をとばした。  ふだんのオラールなら、すぐに|侮辱《ぶじょく》されたと|気《け》|色《しき》ばむところだったが、今夜はおとなしく教えられる立場に徹している。  昨日まで女を追いかけていた彼は、まるで人が変わったように打ちこんでいた。この単純であり、極端なところもある若者にはよくある心境の変化だった。  女のことはとりあえず考えるのをよそう。そのうち取りかえしてやると、彼は|嫉《しっ》|妬《と》めいた思いをいっとき|凍《とう》|結《けつ》した。  サイダはそれをどこかものたりなくながめていたが、かたわらの美しい銀髪の青年から離れようとはしなかった。  ふたりの仲は一行の中ではすでに公認で、昨夜のように場所をうつしてもかまわなかったが、どちらともそうしようとはしなかった。身を隠すのにちょうどいい潅木類が見あたらなかったせいもあるが。  この長い一日を|苛《いら》|立《だ》っていたエリアードは、|相《あい》|棒《ぼう》とふたりきりで話のできる|唯《ゆい》|一《いつ》の時間である、眠る前のひとときを待ちこがれていた。  口もききたくない気分はまだ残っていたが、これ以上、見知らぬ他人のようにすごすのは耐えられなかった。  オラールや自称詩人は別の天幕を割りあてられていたので、昼間のように|邪《じゃ》|魔《ま》をされる心配はないはずだ。  |喧《けん》|嘩《か》をしても長つづきしないのは、いつもエリアードのほうがいてもたってもいられなくなるからだ。  リューは忍耐づよいところがあったし、その気になれば、どんな強い感情の動きもさとらせない自制心があった。  リウィウスにいたころは、多くの者たちがそうした彼を|冷《れい》|徹《てつ》すぎると恐れ、底がしれないと|警《けい》|戒《かい》した。最も近くにいたエリアードはそうではないことを知っていたが。  明日の準備を終え、あとは寝るだけになると、予想をうらぎってリューはこだわるところなく彼のもとに来た。 「そろそろ、怒りをやわらげてくれないかな」  まわりが寝しずまったあとで、いつものように掛け布を引きあげ、リューは最初にそうささやいた。 「怒ってなんかいませんよ。わたしに怒る理由はないとおっしゃったでしょう」 「今でもないと思うんだが、怒りをはらんだ冷たい視線が、前を行くわたしの背中につきささっていたよ、クリブの市長の追っ手がはなった矢のようにね」  本当におびえていたようなその口ぶりに、エリアードは笑いそうになったが、なんとか真顔をたもった。  いつものように丸めこまれてなるものかと、彼は口もとを引きしめる。 「わたしが平気そうにしていたのが、気にいらないのだろう。今日一日、おまえの視線には生きた|心《ここ》|地《ち》がしなかった。そのくらいの罰で許してくれないかな」 「平気そうに、ですか。まるであなたが平気じゃなかったようにとれますね」 「そうだ、まったく|理《り》|不《ふ》|尽《じん》だと思うよ。|嫉《しっ》|妬《と》で苦しむのはわたしのほうなのに、そのうえに怒りをこめてにらまれるとは」 「少しは嫉妬してくださったんですか、とてもそうは見えなかったけれど」  まだうたがわしそうに、エリアードは問いただした。内心ではもう怒りをといていたが。 「彼女に目をつけたのは、わたしが先だ。気づいていただろう」 「まだ話を、そちらのほうにもっていきたいんですか——彼女を取られたくないと思ったなら、|踊《おど》りで求愛されたときにわたしをとめてくださればよかったのに」 「あれは、そうだな、あとで|後《こう》|悔《かい》した。対抗意識のほうが強かったんだ、あのときは——オラールが身分をかさにきて、おまえをかろんじたことが頭にあったんだ。彼女があいつをしりぞけ、おまえをえらんだのが|痛《つう》|快《かい》で、とめる気にならなかった」  ふたりはにらみあって、同時に表情をゆるめた。 「なぜ、それをちゃんと言ってくださらなかったのですか。わたしが誰と寝ようと、あなたは平気なんだと|悲《ひ》|観《かん》しかけてましたよ」 「平気だったら、|決《けっ》|闘《とう》なんてしないな。あれは、後悔と嫉妬でみだれた頭のおこした|愚《ぐ》|行《こう》だ」 「おまけに、楽しめたかと感想を聞くなんて」 「|好《こう》|奇《き》|心《しん》をもつことくらいは許してくれ」  仲直りのしるしに、エリアードは|相《あい》|棒《ぼう》の青ざめた|頬《ほお》を優しく|撫《な》でた。  リューはそれを自分の手にとって、|唇《くちびる》を押しあてた。  彼は薄暗い天幕を見まわしたが、誰も注目する者はなく、寝しずまっている。 「相棒がもてるのはうれしいよ。ときには本当にやっかみ[#「やっかみ」に傍点]をおぼえるときもあるが——おまえを独占しようとは思わない」  ごく素直な調子でリューはつぶやいた。 「あくまで、やっかみ[#「やっかみ」に傍点]だと主張なさるんですね」 「そんなにわたしを、|嫉《しっ》|妬《と》|深《ぶか》い、|独《どく》|占《せん》|欲《よく》のかたまりにさせたいのか」 「ええ、そうなってください」 「それでは互いにしばりあい、|窮屈《きゅうくつ》で身うごきできなくなるよ——エリー、エリー、|深《しん》|刻《こく》になるな」  その言葉にはっとして、エリアードは顔をあげた。  リューはあいまいにほほえみかえした。 「——ときどきあなたが、言葉の通じない|異《い》|邦《ほう》|人《じん》のように思えますよ」  最初の|辛《しん》|辣《らつ》な口調にもどって、エリアードは低くつぶやいた。 「そんなものだ、いくら愛していても同じひとつのものにはなれない」 「またいつものように丸めこまれたような気がしますね、あなたの口のうまさに」 「とりあえずは怒りをといてくれればいい。明日は、うしろからわたしをにらむようなことはやめてくれるね」  返事はしないで、エリアードは寝がえりをうった。     6章 隊商の|密《みつ》|命《めい》  ハルシュ老の|率《ひき》いる隊商は数日ののち、いたって順調な旅をへて、シェクの市門のひとつに到着した。  東のタウをかこむ小王国群と、西の大帝国セレウコアを結ぶ交通の要地であるシェクは、他のオアシス市とはちがって|厳重《げんじゅう》な|警《けい》|備《び》がしかれていた。  |砦《とりで》と見まごう石づくりの|堅《けん》|固《ご》な壁が市のまわりをかこみ、武装した隊が巡回しながら荒れ地を見張っている。  シェクの市内には、ほんの数か所しかない市門から出入りするしかなかった。  そこには通行者のための検査所がもうけられ、公式の通行証を持っていても|入念《にゅうねん》な調べを受けた。  その調べが並みたいていでないことは、市門の周囲に、出入りの許可をえる者たちのための宿がたちならんでいることからもみてとれる。 「ひどいときにはまる三日待っても、入れてもらえない場合があるんですよ。それでも|不《ふ》|審《しん》|者《しゃ》として|逮《たい》|捕《ほ》されないほうがましらしいんですから」  自称|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》が、市門につらなる列を横目にぼやいた。  リューはものめずらしそうに列をながめていた。  |肌《はだ》や髪の色のちがう、さまざまな人種・職業の人々がならんでいるさまは、東西の交通の要地だけのことはあった。 「しばらく前はそれでも、まだ抜け道があったんですが、セレウコアが|介入《かいにゅう》してからは|蟻《あり》の子ひとつも見のがすまいといった|警《けい》|戒《かい》ぶりです」 「しかしシェクは中立だろう。セレウコアからは独立した|交《こう》|易《えき》|都《と》|市《し》だと聞いていたが」  市門の異常なまでの警戒ぶりは、リューにとっても意外だった。  途中に立ちよったクリブでひどいめにあい、当初の予定はくるっていたが、彼とその|相《あい》|棒《ぼう》は荒れ地を越えてシェクに行くつもりでいた。  東のフェルガ公国で聞いていた話では、シェクは自由で活気にあふれた町だということだったが。 「ごく最近ですが、セレウコアは非公式にシェクを|占《せん》|拠《きょ》したのです。市門あたりにいる兵士たちの半分は、セレウコアから|派《は》|遣《けん》された者ですよ。あの|槍《やり》の形はセレウコア独特のものだ」  詩人は、|錨《いかり》の先のような十字形をした槍を指さした。その長い奇妙な槍を手にした兵士はかなり目についた。 「東のタウとでも、一戦まじえるつもりなのか」 「それはないと思います。セレウコアの現皇帝は、タウと終身の和平条約を結んだといいますから。タウよりもむしろ、領土内にちかごろ多発している内乱の防止がねらいだと思います——セレウコアの北西の国境では、ナクシットという|唯《ゆい》|一《いつ》|神《しん》をあがめる信徒たちと小ぜりあいをくりかえしていると聞きますし、シェクの真北にあたる町でも、反乱の徒に町を|占《せん》|拠《きょ》されたそうですから」 「なんだかやっかいそうだな。セレウコア領に近い西の町を、ざっと見てみようと考えたのはまちがいだったように思えてきた」  小さくリューはつぶやいた。  彼らふたりの行く先々では、やたらとやっかいごとがまちうけていて、これまでも長くひとつのところにとどまれたためしがなかった。  前列にいたエリアードが、|砂《すな》|馬《うま》とともに近づいてきた。  荒れ地を行く旅のあいだ、いつもかたわらで寄りそっていたサイダも影のごとく彼についてくる。 「今夜はこのあたりで宿をとるそうですよ。市門にならぶのは、明日の朝にするとのことです」  先頭のハルシュ老の伝言を、エリアードは伝えた。  しかし詩人は首をかしげる。 「変だなあ、いつもはその日のうちにシェクに入るのですけれどね。ハルシュ老はシェクのお偉がたに顔がきくから、長くならばなくても優先的に通してくれるのですよ」 「あなたたちが加わったせいじゃないかしら。通行証には、隊商の人数や、それぞれの目的がしるされているから——人が減るのにはいいんだけど、増えるのには|警《けい》|戒《かい》するそうよ」  サイダは横から心配そうに口を出した。  シェクを訪れるのは久しぶりで、彼女も警戒ぶりのすごさには驚いていた。  一年前に来たときのどこかのんびりした市門の列とは、空気のはりつめ方からちがっている。 「そうか、それもそうですね。きっと通行証の|記《き》|載《さい》をごまかすのにひまがいるんだ——大丈夫ですよ、このあたりじゃハルシュ老の力は大きいんだから」  いたって|楽《らっ》|観《かん》|的《てき》に詩人は言ったが、リューは|相《あい》|棒《ぼう》と顔を見あわせた。 「道に迷って、死にかけていたところをひろってもらったが、そこまで|迷《めい》|惑《わく》をかけては申しわけないな——わたしたちには、どうしてもシェクに入る用事があるわけではないから、めんどうなことになりそうなら、ここで別れてもいい……」  そこまで言いかけて、リューはうらめしげなサイダの視線に気づいた。  彼女とエリアードを引きはなすことになる提案を、簡単に言いだした者をとがめるような、きつい視線だ。 「……とはいっても、南のヤズトにはまた十日ほどの旅になる。西のセレウコアに近づくのはますますめんどうそうだ——今ここで別れたら、わたしたちが|途《と》|方《ほう》にくれることはまちがいないが」  サイダににらまれて、ため息とともにリューはつづけた。もてる|相《あい》|棒《ぼう》をもつのは骨がおれると思いながら。 「宿に着いてから、そのあたりのことは考えてみましょう」  平然とした顔で、エリアードはそうむすんだ。  まもなく一行の先頭は、市門の行列を行きすぎ、宿のたちならぶ通りにかかろうとしていた。  通りの中ほどにある小ぎれいな白壁の宿に、隊商は荷物ごと落ちついた。  老人が|懇《こん》|意《い》にしている宿らしく、めんどうな手つづきなしに二十人あまりと、三十頭あまりの|砂《すな》|馬《うま》を気安く受けいれてくれた。  旅なれているはずの一行も、ひさしぶりの固い屋根と清潔な|床《とこ》には喜びを隠せなかった。  各部屋にはやわらかな寝台があるし、薄焼き|麺《パ》|麭《ン》と|干《ほ》し|肉《にく》ではない作りたての温かな食事にもありつける。  宿の部屋は|木《き》|賃《ちん》|宿《やど》のような大部屋ではなく、小人数の小部屋にわかれていた。これはかなり上等な宿だというしるしである。  宿の払いは、ハルシュ老が前金でわたしていた。  一行の者たちはそれを見て、よほど今度の商売に|儲《もう》かる見とおしがあるせいだとささやきあっていた。 「シェクの町が見えますよ、少しですけれど」  窓をあけはなして、エリアードは相棒をふりかえった。  石づくりの市壁の向こうに、白っぽい屋根のつらなりがわずかに見える。 「ごつい|護《ご》|衛《えい》にまもられた|華《きゃ》|奢《しゃ》な姫君のような|街《まち》だな、まるで」  リューも窓ぎわに歩みよって、しばらくいっしょにそれをながめていた。  午後のにぎわいで、街の中も、市門のまわりも、隊商や旅人たちがあふれている。  灰色の荒れ地ばかりにうんざりしていた彼らは、おおぜいの人たちが行き来する光景にどことなくほっとする思いを味わっていた。  ふたりに割りあてられたのは、二階の|隅《すみ》に面したふた間つづきの部屋だ。  ふたりきりで占めるにはひろいし、|調度品《ちょうどひん》もそろっていて、|一《いっ》|介《かい》の旅人が泊まるには|不《ふ》|相《そう》|応《おう》といえる。  部屋割りは、ハルシュ老がうむをいわせずに決めた。新入りの彼らをふたりきりにしてくれたのも老人の命令だ。  他の者たちはみな下の部屋で、彼らだけが二階の部屋を指定され、しかも老人の部屋とはななめ向かいである。  彼らはこの思いがけない|恩《おん》|恵《けい》を喜んだが、妙にも思った。ハルシュ老の真意はどこにあるのだろうと。  ハルシュ老と彼らふたりは、ひろわれた最初の夜以外、ほとんど言葉をかわす機会がなかった。  老人は夕食のときも天幕から出てこないし、昼のあいだは一行の先頭で道筋を指示するだけである。  彼らだけでなくほかの商人たちもそれは同じで、シェクに着くまではとくになんとも思わずにきた。 「どうします、このままシェクに入りますか——通行許可がおりたらの話ですけれど」  エリアードは窓の外から、横に立つ|相《あい》|棒《ぼう》に視線をうつした。 「荒れ地で助けられ、こんなに上等の部屋でもてなされては、ここでさようならとは言いだしづらいな。かといって世話になった分の代金を払えるほど、わたしたちに路銀の余裕はない」 「では、商売の手伝いでも申しでてみましょうか。あなたは|用《よう》|心《じん》|棒《ぼう》でも——|盗《とう》|賊《ぞく》でも|出没《しゅつぼつ》すれば、恩をかえす機会もあるのですけれど、これだけ|治《ち》|安《あん》がいいと用心棒も必要ありませんね」 「冗談でも、盗賊なんかを待ちのぞむようなことは言うな。これ以上のやっかいごとはたくさんだ」 「とくに女がらみのやっかいごとは、とつづけたいのでしょう」  陽光のうつる金の眼を、リューはゆっくりと彼に向けた。  見なれているはずだったが、今でもときどきエリアードは、その|希《け》|有《う》なきらめきに、はっとさせられた。 「もともとはクリブで、わたしが女に|油《ゆ》|断《だん》しておこったなりゆきだ。そのたぐいのことでおまえを責める権利はないが——」  リューは|皮《ひ》|肉《にく》にほほえんでつづけた。 「できたら、わたしも心ひかれたことのある|魅力的《みりょくてき》な娘から、|極《ごく》|悪《あく》|人《にん》のようににらまれる立場にはしないでほしいな。市門のところで、あのきれいな黒眼が火をふいたときには、|鈍《どん》|感《かん》なわたしでもいたたまれなかったよ」 「——サイダもきっと、シェクに入って|踊《おど》り|子《こ》をはじめれば気が変わりますよ。月のかわりにわたしが欲しかったそうですから」  小さくエリアードはため息をつく。  求愛の踊りのみごとさに一度かぎりと応じたつもりだったが、その後もことわる理由が見つからず、彼とサイダの仲はつづいていた。  毎夜ではなかったが、|誘《さそ》われれば応じていたし、彼自身もそのひとときに満足していた。  |優柔不断《ゆうじゅうふだん》だと非難されれば、彼としても反論できなかった。相手の好意をいいことに、もてあそんでいると受けとられても。  隊商の仲間たちがおもしろ半分に、彼とサイダをいっしょにさせるから、よけいにそうなってしまうところもあった。  |邪《じゃ》|魔《ま》をするかと思ったオラールも、あきらめたのかすっかりおとなしくなっていた。  リューも表向きは平然と、見て見ぬふりをしている。 「まあ、うまくやれ。この件については口出ししない。もっともどこかに落ちついて、彼女と|所《しょ》|帯《たい》をもちたいということなら早めに教えてくれ」  |相《あい》|棒《ぼう》を困らせてやりたい|誘《ゆう》|惑《わく》に勝てず、リューはそうささやいた。  エリアードの|優《ゆう》|美《び》な|眉《まゆ》は、今にも吊りあがろうとした。しかしすぐに、いつもの手にはのるまいと彼は怒りを抑えた。 「それは所帯をもつとなったら、もと主君であるあなたの許しが必要だということでしょうか、リューシディク様」  怒るかわりに、彼は静かに尋ねた。  過去のことをもちだされるのをいやがるリューだったが、今回はただ苦笑いで応じた。うまくやりかえされたと思いながら。 「許しを|乞《こ》いたければ乞えばいい。わたしはけっして許しはしないが、それでよければ」  なだめるように、リューは相棒の肩を抱いた。 「最近のあなたは、以前にもまして意地が悪い。そんなにわたしを怒らせたり、困らせたりするのがおもしろいのですか」 「多少は大目にみてほしいな。おまえと彼女の仲を邪魔する、|鈍《どん》|感《かん》な|阿《あ》|呆《ほう》の役まわりはつらいんだ。その積みかさなった心の痛みのなせるわざだと察してくれ」 「丸めこまれませんよ。こういうことは|茶《ちゃ》|化《か》していいことじゃありませんからね」 「わかってるよ、でもつらいのは本当だ」  リューは真剣に、すぐ前にある銀色の眼をのぞきこんだ。  その|眼《まな》|差《ざ》しを受けとめて、エリアードは彼の|頬《ほお》を両手ではさみ、軽く|接《せっ》|吻《ぷん》した。  外から見えるのに気づき、彼らは同時に手をのばして窓をしめた。  隊商と合流してからは、眠る前のひとときをのぞいて、ゆっくりとふたりだけのときをもてるのはこれがはじめてだ。 「——それで今夜も、彼女と約束ができてるのか」  ひととき|唇《くちびる》を離し、リューは尋ねた。 「まさか、してませんよ、これまでだって約束なんてしたことはない」  エリアードはまた|気《け》|色《しき》ばんだ。  それを封じるように、リューは彼を優しく抱きしめ、低くささやいた。 「ならば今夜は、わたしとともにいてくれ。ふたりきりになれるこんな機会は、もう当分ないかもしれない」 「ええ、ええ——もちろんです」  それ以上は何も言えなくなって、エリアードは|相《あい》|棒《ぼう》の身体にしがみついた。 「あとは、|邪《じゃ》|魔《ま》が入らないように祈るのみだな」  リューのつぶやきと|呼《こ》|応《おう》するように、木の|扉《とびら》の向こうに人の|気《け》|配《はい》がした。 「祈ったとたんに、さっそく|不《ぶ》|粋《すい》な連中だ」  |仕《し》|方《かた》なく彼は、まわしていた両腕をほどいた。  やってきたのはハルシュ老の使いで、ふたりは老人の部屋に招かれた。  ななめ向かいの老人の部屋は、彼らのところより上等の部屋で、美しい|極《ごく》|彩《さい》|色《しき》の壁かざりと|絨毯《じゅうたん》が張りめぐらされていた。しかし窓は小さく、昼中でも|燭台《しょくだい》に火が必要なほど薄暗い。  ハルシュ老は大きな|揺《ゆ》り|椅《い》|子《す》にもたれていた。  長い白髪は細い滝のようにわかれて、老人の肩や椅子の背にたれている。|皺《しわ》ふかい顔では、くぼんだ両眼だけが若々しく光っていた。 「そちらにお掛けなさい」  老人はすぐ前にある長椅子を指さした。  従者として、いつも老人のそばにいる黒っぽい顔をした若者が、ふたりをその椅子にみちびいた。 「おまえは席をはずしなさい。しばらく誰も入れないように」  老人が命じると、従者は驚いたような顔をした。  従者はすぐに気をとりなおして一礼し、外に出ていった。  老人はわざわざ立ちあがって、扉の向こうをうかがい、中から|鍵《かぎ》をかけた。 「アルダリア人は有能で腕はたつが、信用ならない」  ハルシュ老は誰にともなく、そうつぶやいた。  長椅子のふたりは、そんな老人の|警《けい》|戒《かい》ぶりにとまどっていた。  広い部屋の中で、彼らはひとりになった老人と向かいあった。 「サイダから聞いたが、あなたがたはここでわれわれと別れるお考えがあるとか」  ものやわらかくハルシュ老は切りだした。  エリアードは相棒を見たが、リューは動じた様子もなくうなずいてみせた。 「わたしたちといっしょでは通行許可がおりないのではないかと思ったから、彼女にはそう言ったのだが」 「許可のほうは、今日一日かければ大丈夫だ。その点はご心配なさらぬよう、申しあげたい」  老人は無表情のままでそう告げた。 「しかしそこまで|迷《めい》|惑《わく》をかけて、一行に加えてもらうのは心苦しいものがある。わたしたちは商人でもないし、歌や|踊《おど》りができるわけでもないから、ついていっても役にはたてない」  言葉をえらびながら、リューは言った。これを機会に老人の|意《い》|図《と》を確かめようと彼は思っていた。  ハルシュ老はしばらく、彼らふたりを見つめていた。青い|廃《はい》|墟《きょ》の門のところで最初に出会ったときと同じように。 「——今度の旅に、あなたがたを加えることは|偶《ぐう》|然《ぜん》ではなく、あらかじめ決まっていたことだ」  老人は|慎重《しんちょう》な口ぶりで打ちあけた。表情は平静だったが、|膝《ひざ》|掛《か》けの上の両手は固く組みあわされていた。 「偶然でないとは、どういうことだ。道に迷って、かわき死にしかけていたのでひろってくれたのではないのか」  リューは性急に問いかけた。やっかいごとの前の|不《ふ》|吉《きつ》な予感が、|脳《のう》|裏《り》をかけめぐった。 「予言を受けたのだ、出発前に——黒雲のみちびくもとで、金銀ふたつの月を見つけよ。旅の成功には、それらを断じて手ばなしてはならぬと」 「それがわたしたちのことだと?」 「わしはそう信じている。雨のない荒れ地で、黒い雲があらわれることなどめったにない。わしは黒雲を追ってクナの|廃《はい》|墟《きょ》までおもむき、月とみまごうような金色と銀色のあなたがたを見いだした」  老人の静かな顔を、リューは見つめた。隠されたうしろぐらい|意《い》|図《と》は、そこからは読みとれなかった。 「なるほどと言いたいところだが、妙でもあるな——西の方面は、セレウコアのもとで|治《ち》|安《あん》はいいと聞いている。旅のお|護《まも》りがわりに、よけいなふたり分の食いぶちとめんどうをかかえこむのは、あんたにとってわりがあわない気がするが」 「|損得勘定《そんとくかんじょう》は、商人であるわしのほうにまかせてほしい。わしは|迷《めい》|信《しん》ぶかいたちで、予言のたぐいには全面的な信をおいている。あなたがたにはぜひとも、セレウコアまで同行していただきたい——通行の許可は与えられるし、宿などのあつかいもわしと同等にする。西に旅しておられたなら、あなたがたにとっても悪い話ではないはずだ」  熱心に老人は語った。 「たしかに、|一《いっ》|介《かい》の旅人でいるよりは悪い話ではない。あんたはわたしたちの命の恩人だし、頼まれればことわれないだろう」  事実としてリューはそうこたえた。 「では同行してくださるな、ここで別れるとは言わずに」  やや|安《あん》|堵《ど》したように、ハルシュ老は確認した。 「その前にひとつ、尋ねたい——セレウコアになんの目的で行くんだ。単なる商売のためならいいが、それほど旅の成功にこだわるのは何かありそうな気がする」  気持ちは同行するしかないとかたまっていたが、リューはあえて問いかけてみた。  何かあるなら知らないほうがいいかと思ったが、見て見ぬふりはできない|性分《しょうぶん》だった。 「あなたがたに対しての信頼のあかしだ、|伴《とも》の者にも告げてない目的を教えよう——今度のわが旅は、セレウコアの皇帝まで、ある貴重な宝を運ぶのが真の目的だ」  ハルシュ老は声を低くした。 「高価なものなのか」 「宝石のように高く売れるというものではないが——価値のわかる者なら、宝だと喜ぶたぐいのものだ」  それが事実らしいので、リューは興味をなくした。もっとも高価な宝物だとしてもそれほど興味はわかなかったが。 「——承知した。セレウコアまで同行しよう。それならばわたしたちも多少は役にたつかもしれない。もしそいつをねらってくる|盗《とう》|賊《ぞく》か|追《お》い|剥《は》ぎがいたら、|用《よう》|心《じん》|棒《ぼう》がわりにはなれる」  気安くリューはうけおった。  老人の|皺《しわ》にうもれた顔には、ほっとしたような笑みがうかんだ。  その笑みの中にも、彼らをだまそうとするよからぬ|意《い》|図《と》は見あたらなかった。 「ありがたい。救われる思いだ」  ハルシュ老は|椅《い》|子《す》から立ち、ふたりの前でふかぶかと頭をさげた。  リューは|相《あい》|棒《ぼう》のほうを向き、これでいいかと無言で問いかけた。エリアードは|仕《し》|方《かた》なくうなずいた。 「これでサイダも喜ぶ。あなたと彼女が恋仲になったのも、われわれとなんらかのかかわりがあるせいだろう」  ずっと口をはさまなかったエリアードに向かって、老人は言いそえた。 「夜は天幕にこもっていらしたのに、よくご存じですね」  むきになって|否《ひ》|定《てい》してもと、エリアードは肩をすくめた。 「ついさきほど聞いたばかりだよ。このままだとあなたがどこかに行ってしまうと、彼女はうったえにきたんだ——けなげで|一《いち》|途《ず》な娘だよ、|踊《おど》り|子《こ》をしてわたりあるいていても、純粋ですれたところがない。大事にしてやってくれ」  いたってくだけた調子で、老人は|困《こん》|惑《わく》しているエリアードの背中に手をおいた。  リューはいつものすました顔で、そしらぬふりをしていた。     7章 シェクの花祭り  次の日、一行は形式的な調べだけでシェクに入る許可をえた。昨夜のうちに出した使者が、シェクに駐在するセレウコアの最高位の将をうごかしたという。  老人の真の任務を知らない一行の者たちも、今度の旅は少し様子がちがうのではないかとささやきあいだした。  ちがうといえばシェクの町も以前に訪れたときとはちがっている。平和な自由|交《こう》|易《えき》|都《と》|市《し》は、まるでセレウコアの|占領市《せんりょうし》のようになっていた。  シェクは今、花祭りのただ中にあった。中心街に入ると、いつものにぎわいはそれほど変わっていない。  奇妙な|槍《やり》をかかげたセレウコアの兵たちが行き来していたが、市街には東西から運ばれた花が飾られ、|露《ろ》|店《てん》がならんでいた。  市門のところで列をつくっている商人たちは、この祭りで|稼《かせ》ぐために各地方から集まってきた者たちばかりだ。  許可のおりるのが遅れると、それだけ商売にさわりがあった。ハルシュ老の一行にまじった商人たちもその例外ではなかった。  最大の市場から近いところに宿をとり、一行はそれぞれの目的のために散っていった。  商人たちは市場で、売買や、物々交換、情報集めをはじめ、|踊《おど》り|子《こ》や|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》たちは|宴会場《えんかいじょう》や|興行小屋《こうぎょうごや》におもむいた。  彼らはシェクに何度も来ているので、なじみの場所や知りあいの同業者がいるようだ。  朝、エリアードは|香料屋《こうりょうや》の女商人に手伝いを頼まれた。  ハルシュ老の隊商に同行していたこの女商人は、いつも|面《ヴエ》|衣《ール》をかぶって口もきかず、いるのかいないのかわからないような存在だった。 「一日につき百デラ、売り上げが順調なら、もう少し色をつけよう」  女商人は太い声で条件を告げた。 「悪くはないけれど、何をするんです」  とびつきたいのを抑えて、エリアードは確かめた。路銀は残り少なく、あまりえり好みできる立場ではなかったが。 「ケシム産の香料の売り子だよ。あんたなら若い娘が集まる」 「香料、あのケシム産の——?」  彼は問いかえした。北の山脈に|棲《す》む|匂《にお》い|鹿《じか》からとったというその香料は、高価な品の代名詞だ。 「本物がちゃんと一滴ずつ入ってるよ。安い|普及品《ふきゅうひん》だがね、素晴らしく匂うよ」  面衣ごしに女商人は笑った。  一滴だってあやしいものだと、エリアードは思った。 「一日に百二十デラ、|用《よう》|心《じん》|棒《ぼう》つきでいかがですか。それなら引きうけましょう」  手もちぶさたの|相《あい》|棒《ぼう》をちらっと見て、彼は言った。 「用心棒ねえ、うちは娘相手の商売だけどね」  女商人は値ぶみするように、リューをながめていた。彼自身は何を話しているのかと、けげんそうにこちらを見ていた。 「若い娘が集まれば、よからぬ|輩《やから》もやってきますよ。|繁盛《はんじょう》しているあなたを|嫉《ねた》む同業者もいるかもしれない」  どちらでもいいふうにエリアードはほほえんだ。 「わかった、百二十出そう、あんたの友達も連れておいで」  女商人は応じることにした。  |廃《はい》|墟《きょ》の門で見たときから、彼女はこの若者を手伝いに|雇《やと》おうともくろんでいたのである。 「さあ仕事ですよ、|稼《かせ》ぎに行きましょう」  エリアードは、まだぼんやりしている相棒の腕を引いた。  |香料屋《こうりょうや》の女商人、ラスキアのエキナと名のった彼女の|露《ろ》|店《てん》は、思ったとおりに繁盛した。市場のはずれに位置していたが、香料を求める女たちが群がってきた。  黒い布をしいた台の上には、彩色した石の小瓶がならんでいる。容器はシェクに来てからそろえたものだ。  エキナは昨晩、宿で徹夜して、運んできた香料の原液を何十倍にも薄めて容器につめた。女商人らしい工夫で、小瓶にはそれぞれ持ちやすいような飾りひもが巻いてある。  色とりどりのひものせいで、|武《ぶ》|骨《こつ》な石の小瓶もかわいらしくなった。  そんな特色と、売り子の|美《び》|貌《ぼう》もあいまって、エキナの店は|大盛況《だいせいきょう》となった。  最初はためらいもあったが、人が集まるにつれ、エリアードはひらきなおって売り子になりきった。  あでやかなほほえみをうかべ、小瓶を手にとる女たちの|容《よう》|姿《し》や服装をほめながら、彼は香料をすすめた。  ケシム産と|銘《めい》うつだけあって、小瓶の香料は甘い|蠱《こ》|惑《わく》|的《てき》な香りがした。  花祭りに着飾ってやってきた娘たちや、買いだしにきたついでに寄った年のいった女たちは、ちょっとしたわくわくする気分とともに香料を買っていった。  めずらしい銀髪の美しい若者からほめ言葉をささやかれ、祭りの|喧《けん》|騒《そう》のなかで買いもとめた小瓶は、|媚《び》|薬《やく》めいた秘密の香りがした。  黒布の台にひろげた今日の分の香料は、昼すぎにすべて売りきれた。  |商魂《しょうこん》たくましいエキナはそれを見こし、知りあいの商人から花を仕入れてきた。  特別てあてを条件として、エリアードは香料売りのあとに花売りをやらされた。売り物はちがったが、売る相手や売り方は|香料《こうりょう》のときと変わりない。  花祭りのあいだにはどこにでもあふれている花だったが、胸飾りや髪飾りにできるよう色どりよく|束《たば》にしたのが女商人エキナの商才だった。  これから夜遊びにくりだす女たちや、商売女たち、ときにはごく若い青年が喜んで買っていった。  客をとられた同業者が|文《もん》|句《く》をつけにきたこともあったが、大きなさわぎにはならなかった。  |用《よう》|心《じん》|棒《ぼう》としてついてきたリューはとくに仕事はなく、|退《たい》|屈《くつ》しのぎに市場を一日じゅう歩きまわっていた。  やたらと笑顔をふりまき、歯のうくような|世《せ》|辞《じ》を並べる|相《あい》|棒《ぼう》に、彼はひたすら遠くから感心しているしかなかった。  日が暮れてやっと、エリアードは解放された。  花のほうも売りきり、エキナは今日の申しぶんない|稼《かせ》ぎに満足していた。 「お疲れさん、これでおいしいもんでも食べておいで」  |上機嫌《じょうきげん》の女商人は、約束の二倍近くの金に、夕食代をそえてわたした。 「見こんだとおりだ、あんた、とびきりの売り子になれるよ——仕入れの段どりやしきたりを教えてやるから、これからもあたしと組まないかい」  女商人は熱心にくりかえしたが、エリアードはあいまいにほほえんだ。  一日なごやかにほほえんでいたので、|頬《ほお》が引きつってなかなかもとにもどらなかった。  エリアードは女商人と別れ、相棒とともに夕暮れのシェクの|街《まち》を歩きはじめた。今夜はこれから、サイダが|踊《おど》るという野外劇場に行く約束をしていた。 「あいかわらず、女にもてるな。あの商人の見たてどおり、おまえは女相手の商売にぴったりだ」  |皮《ひ》|肉《にく》ではなく、心からリューは言った。  しゃべりつかれていたエリアードは何もこたえず、ただ相棒をねめつけた。 「このあたりではわたしの出る幕はない。悪いが、おまえの稼ぎをあてにするしかないようだ。今夜の夕食代は貸しにしてくれ」 「夕食代だけですよ、飲み代まではもちませんからね」 「つれないな。隊商と出会った最初の晩のふるまい酒以来、一滴も口にしてないのに」 「ついでに当分は禁酒なさい。荒れ地でのたれ死にしそうになっても、まだこりないようですね」  市場からつづくシェクの通りを、ふたりは|辛《しん》|辣《らつ》にやりあいながら歩いた。  野外劇場の黒っぽい影は、|街《まち》なみの向こうにかいま見えた。  人通りは昼間ほどではなかったが、まだかなり雑多な人々がごったがえしていた。  荷車や|砂《すな》|馬《うま》の姿もあり、セレウコアの兵士もまじっている。  めったにないほど|治《ち》|安《あん》のいい街のにぎやかな|雑《ざっ》|踏《とう》に、ふたりはふだんよりも|警《けい》|戒《かい》をゆるめていた。  そんな彼らを救ったのは、長年につちかわれた身の危険に対する一瞬のひらめきだった。  ふりむいたリューは、短い|剣《つるぎ》を身体の前でかまえたまま突進してくる商人ふうの男に気づいた。  彼は|相《あい》|棒《ぼう》の腕をつかんで、とっさに身をかがめた。  男は剣を持ちなおして、今度は上からふりかざした。  リューはその手首をつかんで、下腹に蹴りを入れた。  剣は路上に飛び、男はその場にうずくまった。  しかしいつのまにか、通行人のようによそおって、男の仲間らしい商人ふうの者たちがふたりをかこんでいた。  まわりは|喧《けん》|嘩《か》でもはじまったのかと、気にする様子もなく通りすぎていく。  |包《ほう》|囲《い》|網《もう》からふたりをのがさないように近づきながら、男たちは順に短剣をかかげて襲いかかってきた。  ふたりも、護身用に持っていた|剣《つるぎ》を抜いて応戦した。 「何者だ、なにゆえにわたしたちを|狙《ねら》う——?」  剣を交差させた相手に、リューは落ちついて問いかけた。  しかしまだ若そうな相手の男は、|殺《さつ》|意《い》のほかには何もない眼で彼をにらみすえるだけだった。  その眼はどこかうつろで、|狂気《きょうき》じみたものをひらめかせていた。 「わけぐらい教えてくれ、人ちがいじゃないのか」  エリアードは正面にいた|暗《あん》|殺《さつ》|者《しゃ》の肩を切りさき、うしろから近づいてきた者の|咽《の》|喉《ど》をかっ切った。  正体がしれない相手なので殺さずにおこうと思ったが、手かげんしている余裕はなかった。  暗殺者たちは十人以上いるようだった。  通りの|雑《ざっ》|踏《とう》から包囲するために、一度には襲いかかってこないが、ふたりではとてもかないそうにない人数だ。  それでも歴戦の|修《しゅ》|羅《ら》|場《ば》をふんだリューはあわてることなく、ひとりひとり確実にしとめていった。  エリアードも彼の隣で戦ったこともあるので、かなわないまでも近づく者には|容《よう》|赦《しゃ》しなかった。  暗殺者の集団はひとことも声を発しなかった。|号《ごう》|令《れい》らしい掛け声もなく、|黙《もく》|々《もく》と剣をつきだしてくる。  それなりに集団行動の訓練を積んだ者らしいが、兵士のようではなかった。  それほど|際《きわ》|立《だ》って腕のたつ者もいない。ただ粘り強く、仲間が倒れても視界にすら入らないように突進してきた。  きりがないな、とリューは思った。  通りがかりのセレウコアの兵士に助けを求めようかとも考えた。しかし、ひとりやふたりの兵士なら、巻きぞえになって死ぬ可能性があった。  機械的に相手の攻撃をかわしながら、リューは不安にかられた。  このままでは彼も|相《あい》|棒《ぼう》も疲れはてて、ますます|劣《れっ》|勢《せい》になるにちがいなかった。  助けは思いがけないところから現れた。  横にある石づくりの建物の二階から、仮面をつけた長身の男が、包囲の輪の中に飛びこんできたのである。  このあたりではめずらしい幅広の長剣をさげ、|赤銅色《しゃくどういろ》のぴったりとした|天鵞絨《ビロード》の上下に身をつつんでいる。  仮面は祭りの店で売られているような笑い顔のものだったが、|光《こう》|沢《たく》のある銅製だった。  仮面を|縁《ふち》どっているふさふさした長い巻き毛も、銅を細くのばしたような色あいをしていた。  仮面の男は|一《いっ》|騎《き》|当《とう》|千《せん》のはたらきで、|暗《あん》|殺《さつ》|者《しゃ》の群れをけちらした。  ふたりが三人になっただけだが、|劣《れっ》|勢《せい》は見る見るうちに消しとんだ。  男の長剣は切れ味のいいものだったし、それをあやつる腕も見事なものだった。  風がうなるように長剣はふりまわされ、暗殺者たちは近くにも寄れなくなった。  リューは思わず手をとめて、その剣さばきと動きに見とれた。  重い長剣をあつかっても力まかせではなく、その効果をはかったふりまわし方をしている。彼も多少の腕のおぼえがあるだけに、仮面の男の底しれない技量が見てとれた。  謎めいて|不《ぶ》|気《き》|味《み》ではあるが、心強い助っ人にはまちがいなかった。  銅仮面の笑い顔の横で、彼らふたりも必死に戦った。  包囲していた者たちは次第に後退していった。  何事かと見物にきた通行人の数も増えはじめる。 「連中を突破する、あとについて来い」  くぐもった声で仮面の男は言った。  圧倒されていたふたりはうなずいた。  仮面の男は暗殺者を長剣でおしのけて、包囲の輪を|崩《くず》した。  ふたりもそのあとにつづいた。  セレウコアの兵士の隊が、大きくなったさわぎを聞きつけ、向こうからやってくるところだ。  それに見つからないよう、仮面の男はふたりを手近な路地にみちびいていった。  暗殺者は追ってこなかった。追おうとする前に、セレウコアの兵士たちから反対に包囲されたのである。  駆けつけた兵士たちは、商人ふうの暗殺者たちが互いに|内《うち》|輪《わ》もめしたと受けとったらしい。生き残った者にさわぎのわけを問いただしている。  仮面の男に助けられたふたりは、路地に隠れたままなりゆきを見ていた。暗殺者の正体が知りたかったせいもある。  しかし胸の悪くなるような光景が、それからくりひろげられた。  暗殺者たちは何か|奇《き》|怪《かい》な文句を|唱《とな》えながら、持っていた毒のようなものを次々とあおった。  路上に散らばる仲間の|死《し》|骸《がい》の上に、生き残った者たちも残らずおおいかぶさった。  兵士と通行人は、いっせいに後方へしりぞいた。  十以上ある|死《し》|骸《がい》は黒い煙をあげはじめた。燃えているのではなく、|溶《と》けているのだ。  通りには|異臭《いしゅう》がたちこめ、黒煙は死骸をつつみこんだ。  訓練された兵たちでさえ、これにはたまらず逃げはじめた。 「なんだったんだ、あれは……」  薄暗い路地に引っぱっていく仮面の男に、リューは問いかけた。 「べつにどうということのない|黒魔術《くろまじゅつ》の一種だ。恐ろしがるのはしろうとだけだ」  あざけるように仮面の男は応じた。  その言い方にむっとして、リューは男の手をふりはらった。 「助けてくれたことには礼を言う——しかしあんたは何者だ。連中も謎だが、あんたも謎だ」  仮面の男は、彼らふたりの前で腕組みして立った。リューよりも背が高く、|鎧《よろい》のような筋肉が衣服の上からでもわかった。 「連中はある|狂信的《きょうしんてき》な宗教集団に属する者たちだ。わたしはわけあって、連中の宗教に敵対する立場にいる」 「だから、わたしたちを助けたのか」 「それもあるが、ほかのわけもある」  言葉を切って、しばらく仮面の男は沈黙した。|得《え》|体《たい》のしれない|威《い》|圧《あつ》|感《かん》が男からはただよってきた。 「その宗教集団とやらが、なぜなんの関係もないわたしたちを殺そうとするんだ」  |気《け》|圧《お》されそうになったリューは、男との距離をたもったまま、するどく尋ねた。 「——それはいずれ、いやでも知ることになる」  同じあざけるような口調で、仮面の男は応じた。はたにはそう聞こえるが、当人にしてみれば|癖《くせ》のようかもしれなかった。  リューはかたわらの|相《あい》|棒《ぼう》に目をやった。目の前の男にどう対処していいのかわからなかった。  敵なのか、味方なのか、感謝すべきなのか、|警《けい》|戒《かい》すべきなのか、その正体すらも。  仮面を取ってやろうかとも思ったが、男の腕から考えて、さわらせもしないで返り討ちにされる可能性もある。 「助けに入ったもうひとつのわけを教えてやろう」  長い沈黙の後に、男は腕組みをといた。 「もうひとつのわけ——?」  リューはまだ混乱していて、よくわけがのみこめなかった。  仮面の男は笑みをこらえているかのように肩をふるわせ、彼に歩みよった。 「何をする、なんの……」  リューの言葉はつづかなかった。  仮面の男が彼の背に腕をまわして、そっと注意深く抱きよせた。 「わがあこがれの、|愛《いと》しの君よ——こうして君にまみえ、|邪《じゃ》|悪《あく》なる者たちから君を守り、無事な君を確かめることができるのは、大いなる喜びだ」  ふるえる声で男はささやいた。またたく仮面の奥の目はうるんでいた。 「この出会いは運命だ、|尊《とうと》き祖先より、あらかじめ定められた」  驚きのあまり、リューは男の腕をふりはらうことも忘れていた。  彼の|呆《ぼう》|然《ぜん》として青ざめた|頬《ほお》に、仮面の男は万感の思いをこめて、銅の|唇《くちびる》を押しあてた。  相手の驚きようと、目を丸くしている様子を見て、男は|発《ほっ》|作《さ》のように笑いはじめた。笑いは今までのあざけるようなものではなく、明るい|哄笑《こうしょう》だった。  からかわれたと思い、リューは怒りで頬をそめた。  彼はありったけの力で男の強い腕をふりほどき、仮面の顔を|殴《なぐ》った。  少しもこたえた様子はなく、仮面の男は後方に飛びすさった。  痛みもほとんどないようだ。殴りつけたリューの手のほうが痛んでいる。 「たしかにあんたには助けてもらったが、そんなふうに|侮辱《ぶじょく》されるいわれはないぞ」  気を静めて、リューは低く言った。 「侮辱とうけとられたのは残念だ。|挨《あい》|拶《さつ》がわりのつもりだったのだが」  仮面の男は心外そうに応じた。 「挨拶だって、あんな|無《ぶ》|礼《れい》な挨拶があるか」 「どんなふうに言葉をはじめようと、あれこれ迷った末に決めた挨拶の言葉だ——あなたに出会えたら、こう言おう、ああ言おうと山ほどの言葉があったのだが」 「あんた、腕はたつが、頭はおかしいようだな」  リューは怒りがおさまらなかった。 「残念だが、ここではまずい、またゆっくり会おう」  相手の怒りを気にした様子はなく、そう言いすてると、仮面の男はすばやく向こうの路地の暗がりへ駆けていった。 「——待て」  リューは曲がり角まで、そのあとを追った。しかし、男の姿は|宵《よい》|闇《やみ》のたれこめた路地のどこにも見あたらなかった。  現れたときと同じように、どこから来たかわからないまま男はいなくなっていた。 「あの|野《や》|郎《ろう》、またゆっくり、だと——次に会ったら|容《よう》|赦《しゃ》しないぞ」  じめじめした石壁に、リューは軽く|拳《こぶし》を打ちつけた。時がたつにつれて、不快感が激しくわきあがってきた。 「いいじゃないですか、助けてもらった恩と|相《そう》|殺《さい》してあげれば」  笑いながら、エリアードはなぐさめた。 「おまえは|悔《くや》しくないのか、あいつの馬鹿にしきった態度が——おい、なぜおまえまで笑ってるんだ」  おかしさをこらえきれないような|相《あい》|棒《ぼう》を、リューはきつい眼でにらんだ。 「馬鹿にはしてないとわたしは思いますよ。本人も言っていたように、あれがあの人の挨拶の|仕《し》|方《かた》だと思うな」 「あの野郎の肩をもつのか」 「あなたこそ変ですよ、そんなにこだわって怒るなんて——わたしたちはあやういところを救われたんです。あの人が何者でも、やや変わっていても、感謝すべきですよ」  リューは反論できずに、|眉《まゆ》を寄せた。  エリアードはその金の眼をのぞきこんで、やはりおかしそうにつづけた。 「わかりますけれどね、あなたがこだわるわけも——あの人はどこか、あなたに似てるんだ。すっとぼけたもの[#「もの」に傍点]の言い方も、見ようによっては|横《おう》|柄《へい》な態度も、どこかけれん味[#「けれん味」に傍点]のあるところも」 「似てるって[#「似てるって」に傍点]、あいつとわたしが[#「あいつとわたしが」に傍点]——」  何をとんでもないことを言いだすんだと、リューは相棒の肩をつかんだ。 「だからわたしとしても、あの人に悪感情をもてなかった。あなたのそうしたところが|魅力的《みりょくてき》なように、あの人もどこか憎めない——仮面を取った顔を見てみないとまだわかりませんが」  なだめるようにエリアードはささやいた。肩をつかまれた手をそっとはずし、あらためて彼は|相《あい》|棒《ぼう》の首に腕をまわした。  その指摘をリューはまだ認めていなかったが、すぐ前にある暖かな身体を抱きしめた。  仮面の男が助けに入らなかったら、大事な彼の相棒も|怪《け》|我《が》を負っていたか、あるいは死んでいたかもしれないと思いなおしながら。 「あいつの言動にこだわったわけのひとつは——どう見ても、あいつの腕がわたしより上だったからだ。立ちあったら十回のうち八回ぐらいは、わたしが負けるだろう」  リューは素直にそれは認めた。     8章 銅仮面の|騎《き》|士《し》  花祭りのさなかにも、町にはひっそりと静まりかえった一画があった。  市場からごく近い通りに位置しているにもかかわらず、人のにぎわいはそのあたりをさけていた。  石塀にかこまれた黒い建物には誰も近づこうとはせず、荷車や馬車もまわり道をえらんだ。  ときどき、その建物に向かう黒衣に身をつつんだ者たちとすれちがうと、町の人々は|災《わざわ》いよけのしるしをきった。 「セレウコア兵が来て、あそこも立ちのかせると思ったがな」  常設の店を出している商人たちがささやきあっていた。 「ベル・ダウの|山《さん》|麓《ろく》の村は、やつらに|占《せん》|拠《きょ》されたのだろう。事実上の|宣《せん》|戦《せん》だというのに、大国セレウコアもあまいな」 「北のナラで起こった反乱というのも、やつらが|扇《せん》|動《どう》しているそうだろう。わがシェクも、その二の舞にならなきゃいいが——」  風の向きが変わると、黒い建物からは灰色の煙とともに、奇妙な|香《こう》の|匂《にお》いが|漂《ただよ》ってきた。  祭りの日であっても、内部ではいつもの|得《え》|体《たい》のしれない儀式がおこなわれているらしい。  黒衣の者たちが町の人々から|忌《い》みきらわれるのは、そうした秘密めいた儀式がまわりによからぬ影響をあたえるのではないかという|素《そ》|朴《ぼく》な恐れからだ。  実際に、黒衣の者たちは|黒魔術《くろまじゅつ》に通じていて、反対勢力を|呪《のろ》ったり、さまざまな|厄《やく》|災《さい》をもたらしたりしていた。  |年《とし》|端《は》のいかない子供をさらっては、忠実な信徒に育てあげたりすることもあるという。  ナクシットと呼ばれる神だけをあがめる彼らは、ほかのどんな神の教えも|否《ひ》|定《てい》していた。シェクにも、古来より伝わる商売と農業の守り神のほこらがいくつかあったが、彼らのうち|狂信的《きょうしんてき》な者たちはそれをこわしたり、焼きうちしたりしたこともある。  昨夜、町の大通りの|雑《ざっ》|踏《とう》で、十人をくだらない者たちが毒をあおり、その|死《し》|骸《がい》が黒煙といっしょに|溶《と》けたという|噂《うわさ》も、さまざまな尾ひれをつけて伝わった。  |内《うち》|輪《わ》もめだったのか、何かよからぬわざ[#「わざ」に傍点]をやろうとしていたのか、いっさい不明でも、そうしたたぐいのことはすべて黒衣の者たちのしわざと考えられていた。  セレウコア兵たちが、その件で彼らを問いただしている光景が町のところどころで見られ、町の人々の|嫌《けん》|悪《お》はたかまっていた。  午後になって、立派な赤馬をあやつる一騎が、|伴《とも》もなく黒い建物めがけて駆けていくのを、近くの商人たちは目撃した。  乗っていたのは身なりのいい長身の男だった。  在留しているセレウコアの将のひとりではないかとささやかれたが、いくら地位があっても、単身でナクシットの分教所におもむくのは正気の|沙《さ》|汰《た》ではないともいわれた。  しかし彼は黒い門の正面から、堂々と中へ入っていった。  銅を薄くのばしたような量の多い髪、背中に立派な長剣を吊るしたその長身の男は、仮面こそつけていなかったが、昨夜の謎の人物にまちがいなかった。 「教長に会いたい、通してくれ」  彼は門番に名を告げ、複雑な図形を|彫《ほ》った丸いメダルを見せた。各国に通じる高位の|魔術師《まじゅつし》のしるしで、黒魔術の都ドゥーリスが発行しているものだ。  門番はすぐ、分教所の|長《おさ》に伝声管のようなもので取りついだ。めったにないことだったが、教長は会見を承諾した。  銅色の髪の男は、黒い方形の建物へとみちびかれた。  広い敷地内では、信徒たちが地面に|額《ひたい》をすりつけ、手足をくねらすようにしながら、単調な祈りの文句をくりかえしていた。  ナクシットの御ためにとか、ナクシットの|御《み》|名《な》にかけてとか、の決まり文句だけがなんとか聞きとれる。  慣れない者にとっては不快な強い|香《こう》がたかれ、あたりは霧がたちこめたように曇っていた。  そんな異様な光景など気にしたふうもなく、彼は平然と通りすぎた。  信徒たちのほうも祈りに|没《ぼっ》|頭《とう》し、侵入者に注意をはらわなかった。  方形の建物の中は明かりもなく、|詠唱《えいしょう》じみた祈りの文句だけが奥から伝わってきた。  案内役の信徒は、|闇《やみ》でも目がきくかのように進み、彼も黙ってつづいた。  交差する階段をのぼり、通廊の奥を進んだところで、教長は待っていた。  教長はきわめて|小《こ》|柄《がら》で、|面《ヴエ》|衣《ール》をつけ、信徒らしい黒衣の上には紫の帯をかけていた。 「これはグリフォン殿、じきじきのおこしとは——驚きましたよ」  教長が、やわらかく声をかけた。  いつもは|厳《きび》しく|容《よう》|赦《しゃ》のない教長の、気さくともいえる態度と口ぶりに、案内役の信徒は目を丸くした。  |慎《つつし》みの教えも忘れ、|呆《ぼう》|然《ぜん》とふたりを見くらべている信徒に、教長は出ていくよう命じた。しばらく誰も通さないようにとも。 「ドゥーリス以来だな、ヤイラス殿——シェクにはよく立ちよったが、ここの教長があなただとは、つい最近まで知らなかった」  にこりともしないで、グリフォンと呼ばれた銅色の男は応じた。 「ひさしぶりで、いろいろ積もる話もありますが——先日、わが信徒の|館《やかた》に、鳥使いめいたやり方でさぐりを入れたのは、あなたですね、グリフォン殿」  ヤイラスはやんわりと|非《ひ》|難《なん》した。 「それは|否《ひ》|定《てい》すまい。しかし、わたしの|危《き》|惧《ぐ》があたったことになるゆえ、今ここでナクシット教団にわびは入れないことにする」 「いらした用件はわかってます。昨夜のあの一件のことでしょう」 「ならば、話は早い。どういうことか、さっそくお聞きしたい」  グリフォンは、手近な黒い|椅《い》|子《す》に腰かけた。 「ひとつの教団といいつつも、われわれの中には、考えを|異《こと》にする|派《は》|閥《ばつ》があることはご存じでしょう」  |面《ヴエ》|衣《ール》のついたかぶりものを取り、ヤイラスは彼に歩みよった。  そうした姿になると、彼女がまだ若い女であることがわかった。黒い巻き毛はうしろでまとめられ、目と|眉《まゆ》は信徒独特のやり方で|藍《あい》|色《いろ》にくっきりと|縁《ふち》どられていた。 「派閥とは、宗教集団にそぐわない言葉だな。|世《せ》|俗《ぞく》の王宮ではよく、つかわれる言葉ではあるが」  |皮《ひ》|肉《にく》にグリフォンは応じた。 「教義の上の|分《ぶん》|裂《れつ》ではありません。ナクシットの|御《み》|名《な》のもとに|仕《つか》える身であることは同じですが、その御意志をしめすときに微妙なちがいが生じてくるのです。ナクシットの御意志は、信徒である|巫《み》|女《こ》によって伝えられますから、人による解釈にちがいがでることは|仕《し》|方《かた》のないことです」 「つまり、昨夜の一件にあなたは関与していないと言われるわけか」 「あれはわが教団の中でも、急進派の突出した一部が暴走して起こしたことです。彼ら自身も死を|覚《かく》|悟《ご》して決行したもので、全員がその場で自害しました。教団の命令を無視しておこなったのですから、自害しなければ、こちらで|処《しょ》|刑《けい》したでしょう」  シェク周辺の信徒をたばねる教長らしく、ヤイラスは冷静に告げた。 「教団としては、あのおふたかたを|抹《まっ》|殺《さつ》する考えはないと解釈してもいいのか」  あぶないところをかろうじてまにあい、助けに入った昨夜のことを思い出し、グリフォンは怒りをちらつかせた。 「今のところは、抹殺を主張しているのは急進派だけで、残りのおおかたはなりゆきを見守るほうにかたむいています。しかしベル・ダウ付近の情勢次第では変わりますし、|巫《み》|女《こ》を通じてまた別の御言葉が伝えられるかもしれません」 「ナクシットのお告げとは、どのようなものだったのだ。こちらも独自に調べたが、伝わってくるのはまちまちだ」 「——われらの最大の苦難は、〈月の|民《たみ》〉によってもたらされる。その苦難を乗りこえねば、教団に未来はないであろう、とこのようなものです」  効果をはかるように、ヤイラスは言葉をきった。 「急進派はやられる前に|抹《まっ》|殺《さつ》しろと、|勇《いさ》み|足《あし》です。〈月の民〉自体をすべて抹殺しろと主張する者もいます。教団内でかなり|位《くらい》の高い人の中にも、そうした考えをもつ者も|皆《かい》|無《む》ではありません。たとえばウィリクなんかも、そのひとりです」  そのなつかしい名に、グリフォンは顔をあげた。  ヤイラスはうっすらとほほえみかえした。ヤイラスとウィリクの双子の姉弟はともに、グリフォンの修業仲間だった。  数年前、|黒魔術《くろまじゅつ》の都ドゥーリスで、グリフォンは彼ら姉弟と、ほとんど寝おきをともにするくらい親密につきあい、修業に励んでいた。 「ウィリクは今、どこにいるんだ?」 「それはわかりません。姉弟とはいえ、今はお互いに|忙《いそが》しくて、年に一度も会えませんから」 「あなたも、魔術師ギルドから|脱《だっ》|退《たい》したのだな。ウィリクが脱退したとは聞いていたが」 「|仕《し》|方《かた》ありません。特定の教えに加担することは、ギルドの|掟《おきて》に反しますから——あなたのそのギルドの上級の|証《あかし》が、うらやましくもありますよ。あなたや弟とすごしたドゥーリスの学舎を、ときどきなつかしく思うこともあります」  首から下げていた丸いメダルを引きちぎり、グリフォンは|椅《い》|子《す》を|蹴《け》った。 「わたしも脱退する|覚《かく》|悟《ご》はある。これだけは言っておこう——ふたたび、あのおふたかたを抹殺しようとする動きがあったなら、わたしは表だってナクシットの敵にまわる。これまでわたしはセレウコアにも、ナクシットにも、ほかの動きにも、中立の立場で接してきたつもりだが」 「たえず公平と大局の視点をもち、争いには|均《きん》|衡《こう》を心がけるべく力をつくす——そんな掟がありましたね、ギルドの二十八の条文の中には」  |揶《や》|揄《ゆ》するように、ヤイラスはあとを受けた。 「ナクシット教団は人種・出身国の区別なく、信徒はすべて平等だという教えじゃなかったのか。さきほど庭で祈っていた信徒の中にも、ニサ人やアルダリア人、フェルガ人や、色白の北方人まで|隔《へだ》てなくまじっていた——〈月の|民《たみ》〉だけを差別し、|抹《まっ》|殺《さつ》しようとするのはナクシットの教えに反するのじゃないのか」  グリフォンもするどく|逆襲《ぎゃくしゅう》した。  |黒魔術《くろまじゅつ》の都ドゥーリスで、ともに修業をつんだ仲間らしい友好的な空気はいつのまにか吹きとんでいた。 「あなたこそ、なぜそうまで、ああした非存在をかばいだてするのです。〈月の民〉はこの地上の者ではありませんから、わがナクシットの|御《み》|教《おし》えに反することはありません——人間と思ってない者も、信徒の中にはいますよ。彼らは身体の色素をなくしたような|薄《うす》|気《き》|味《み》の悪い見かけをしてますし、普通の人間より年をとりませんからね」 「|嘆《なげ》かわしくも|狭量《きょうりょう》な平等だな」  |吐《は》きすてるようにグリフォンはつぶやき、平然とすましているヤイラスをにらみつけた。 「ウィリクやあなたに、ギルドを|脱《だっ》|退《たい》しても|帰《き》|依《え》するべき教えがあったように、わたしにも守るべきものがあるのだ——失礼する」  かつての修業仲間である教長に一礼すると、グリフォンは分教所を辞した。  ふりかかった出来事について問いただすため、リューはハルシュ老の部屋を訪れた。  ちょうどグリフォンと呼ばれていた銅の仮面の男が、ナクシット教団の分教所に入ったのと同じころである。  老人の部屋は彼らのすぐ隣だった。商売のほうはほかの者にまかせ、ハルシュ老はほとんど部屋に閉じこもっている様子だ。  手もちぶさたのリューと同じように、老人もひまをもてあましていたのか、|快《こころよ》く部屋にむかえてくれた。  黒っぽい顔をした長身の従者はいなかった。シェクに知りあいがいるというので、しばらくひまをもらって出かけたということだ。  自分たちが襲われたとは言わず、通りがかりに見た光景として、リューはその出来事を語った。  |死《し》|骸《がい》が黒い煙とともに|溶《と》けたという話は、老人も小耳にはさんでいたようだ。 「口封じと証拠消しによく使われる手だな。毒のようなものをあおったなら、その中にいろいろふくまれていたのだろう」  とくに興味をひいたふうでもなく、|噂話《うわさばなし》の延長として、ハルシュ老は言った。 「シェクの|警《けい》|戒《かい》|網《もう》をくぐってきたのだから、組織的な集団のさしむけた者たちだろうな。ヤイラスの|暗《あん》|殺《さつ》|団《だん》ならやりそうだが、連中が|狙《ねら》うのは|王《おう》|侯《こう》ばかりだ。シェクには今のところ、どこかの身分の高い方がおしのびで来ているとは聞いてない」 「近くにいた者は、|狂信者《きょうしんしゃ》の集団じゃないかと言っていた」  それとなくリューはつけ加えた。 「狂信者ならば、近ごろセレウコアの北西部をおびやかしているナクシットという|邪教《じゃきょう》集団がいる。もともとはベル・ダウ山脈の北に隠れすんでいた者たちだが、急激に勢力をのばしてきた一派だ。方々に信徒がいて——シェクにもたしか、大きな分教所がある」 「ナクシット神か、聞いたことがあるな」 「|黒魔術《くろまじゅつ》の結びついた邪教のひとつだという。信徒をひそかにドゥーリスへおくりこみ、黒魔術の修業をさせているという話もあるくらいだ。ナクシットの者なら、口封じの術も思いのままにあつかうかもしれんな」  話しているあいだ、リューは老人の表情を観察していた。  しかし老人は、単なる奇妙な出来事としか考えていないようだった。何か隠しているそぶりはなく、老人と狂信者たちにはなんのかかわりもなさそうである。  彼らが襲われたのは、ハルシュ老の|内《ない》|密《みつ》の目的に関係があるのではないかと、リューはうたがっていた。  老人からそれを打ちあけられた次の日に|遭《そう》|遇《ぐう》したことだったし、ほかにただの|放《ほう》|浪《ろう》|者《しゃ》でしかない彼らを殺そうとする理由は思いうかばなかった。  彼らの故郷の地リウィウスは、とうに失われてひさしいし、その存在すらほとんど知られてないはずである。  あくまでそう思っていたいのは、過去のことをすべて忘れたい彼の願望にすぎないのかもしれなかった。  それから、祭りのつづく三日のあいだ、ハルシュ老の隊商はシェクに滞在した。  エリアードは初日と同じように女商人を手伝っていたが、奇妙な集団に襲われることもなく、ほかに変わったこともなかった。  謎の仮面の男もあれから姿を見かけない。  思いかえしてみても、夕暮れの見せたひとときの悪夢のような出来事だった。  あの異様なひとときをのぞけば、シェクは祭りの活気にあふれる平和な町でしかなかった。  シェクに滞在した期間、一行は各方面でまずまずの成功をおさめた。  エリアードの手伝った|香料屋《こうりょうや》の女商人は、持ってきた分の品をここで売りきってしまい、セレウコアの都では別の商売を計画していた。  他の商人たちも、シェクでさばく予定のものはさばくことができたようだ。  |踊《おど》り|子《こ》のサイダは、野外劇場や常設の|興行小屋《こうぎょうごや》で歌って踊り、大好評をえた。  どの地方に伝わる踊りでもなく、どんな型にもとらわれない彼女の踊りは、|進《しん》|取《しゅ》の|気《き》|風《ふう》に|富《と》む|交《こう》|易《えき》|都《と》|市《し》によくあっていた。  |相《あい》|棒《ぼう》とともにエリアードものぞきに行ったが、サイダは|熱狂的《ねっきょうてき》な観衆にかこまれて近づくこともできなかった。  荒れ地を旅していたときに一度、近くで見ることができたのは、めったにない幸運だと思えてくるほどの人気だ。 「彼女はあのとき、おまえひとりのために求愛の踊りを|披《ひ》|露《ろう》したんだ。あらためて得意な気分にならないか」  観衆にもまれながら、リューは相棒にささやいた。 「もっと声を低めてください、まわりの人たちに|嫉《ねた》みをかいそうだ」  まんざらでもない気分になり、エリアードは舞台のほうを見つめた。  サイダが公演を終え、宿にもどってくるのはいつも夜明けごろで、朝から市場に向かう彼とは、シェクにいるあいだはずっとすれちがっていた。  公認の仲のようになってしまった彼女との|間柄《あいだがら》を、エリアードはどちらかというともてあましていたが、口をきく機会もないのはさびしく感じていた。われながら身勝手なものだと思いながらも。  前列には、花束をふるオラールの姿もあった。  オラールはまた、サイダを追っかけはじめていた。  シェクに入ってからは、武芸の訓練をするのにも場所がなかったし、熱しやすくさめやすい彼の性質からいって飽きがくるころだった。  サイダの出演するところに、いつもオラールは花束を持って出没しているようだ。今も人の輪を押しのけ、さらに舞台へ近づこうとしている。  一行の他の者たちとちがい、オラールは|稼《かせ》ぎもしないで遊びくらしていたが、資金に不足はないようだった。貴族の|子《し》|弟《てい》だというのは本当らしく、西のそれぞれの町に引きだせるようになっている金があるらしい。  そんなところもオラールは一行の中で嫉みをかっていた。  サイダを見に集まった観衆たちとのあいだで、彼女をめぐって|喧《けん》|嘩《か》|騒《さわ》ぎになったこともあった。  エリアードはそんな彼の姿を何度か見かけたが、|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》だとほうっておいた。  修業中だという自称|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》は、小さな|居《い》|酒《ざか》|屋《や》の集まった通りで、めずらしい話や|伝承《でんしょう》を聞かせては食事代くらいを|稼《かせ》いでいた。  |香料《こうりょう》売りの帰りに、エリアードと|相《あい》|棒《ぼう》はその居酒屋のひとつに寄ったりした。居酒屋に行きたがるリューの目的は、詩人のほかにあったが。  詩人はけっして楽器も語りもうまくなかったが、素直で真剣なところが好感をもたれているようだった。  馬鹿にしてからんでくる酔っぱらいもいたが、リューが外に引きずりだし、軽くおどしてやったらおとなしくなった。  こわい|用《よう》|心《じん》|棒《ぼう》がついていると評判になってからは、その|界《かい》|隈《わい》で詩人を馬鹿にする者はいなくなったという。  シェクでのふたりの日々は、奇妙な集団に襲われた一件をのぞけば、すべて平穏でのどかなものだった。  彼らの周囲の者たちにもなんの危険もないようだ。  荒れ地での数日の旅と、シェクの祭りのあいだに、ふたりは一行とすっかり親しくなっていた。ずっと長いあいだともに旅してきたような|錯《さっ》|覚《かく》にかられるほどに。  ハルシュ老からセレウコアまで同行するよう頼まれていたが、それがなかったとしても彼らは一行と旅していったのではないかと思えてきた。  路銀も多少たまったし、ふたりはシェクでの成果に満足していた。  ときどきわいてくる|不《ふ》|吉《きつ》な思いをうちけしながら、祭りの終わりとともに、一行はシェクを発った。     9章 予言の真実  次の目的地アルルスまでは、また五日ほどの旅になる。  シェクから西は、街道も整備され、緑の木々や、小さな川もちらほらあるので、荒れ地を行ったときのような|苛《か》|酷《こく》さはなかった。昼の陽射しだけは、あいかわらず焼きつくすように強かったが。  ハルシュ老は、隊商を街道からはずれさせ、ほぼ平行してはしっている踏みかためた小道のほうを進んだ。  街道にはセレウコアの兵士の隊が行き来し、それに出会うと隊商はいちいち|脇《わき》にしりぞいて道をゆずらなくてはならないからである。  |街《まち》|中《なか》に|駐在《ちゅうざい》する兵たちとちがい、街道づめの者たちはさまざまな人種の|傭《よう》|兵《へい》がまじっており、夜になると|追《お》い|剥《は》ぎにかわる者もいた。  その点からも、街道よりむしろ脇道のほうがよかった。  一行は荒れ地のときとは反対に、道幅が許すかぎり、なるべく何列にもかたまって進んだ。追い剥ぎや|盗《とう》|賊《ぞく》、近くの岩山に隠れすんでいる部族の襲撃に気をくばるためである。  見わたすかぎり灰色の砂土しかない荒れ地ではそんな用心は必要なかったが、林や茂みの点在するこのあたりでは何者かがひそんでいるかもしれない。  |孤《こ》|独《どく》とかわきとの戦いは終わったが、人の住める地にはまた別の戦いがあった。  とはいっても、たえず武装の必要があるほど、そうした危険は多いわけでなく、未然にふせぐ用心にすぎなかった。  たらたらと長い列をなしてのんびりと進む隊商の後方は荷物が積んであることもあり、|狙《ねら》われやすかった。  登りくだりの多い小岩だらけの道だったが、|砂《すな》|馬《うま》たちは苦もなく歩んでいった。  彼らはかわききった平坦な荒れ地でも、|鬱《うっ》|蒼《そう》とした森の中でも、かわりなく力を発揮するよう改良された優秀な馬の改良種である。 「クリブの市長はついにあきらめたようですね、|無《ぶ》|礼《れい》な客人が奪っていったとびきりの砂馬二頭を——これは一頭につき、ゆうに黄金ひとふくろ分の値うちがある」  砂馬を寄せて、エリアードはささやいた。  リューは|露《ろ》|骨《こつ》にいやな顔を見せた。 「忘れていたことを思い出させるな。連中はわたしたちが荒れ地でのたれ死んでいると信じこみ、悪事にはそれなりのむくいがあるものだと自分を|納《なっ》|得《とく》させているさ」 「悪人というのは、悪運に恵まれているのを見おとしてるわけですね」 「クリブのことは今後のいい教訓になった。ふるまい酒と女の視線には気をつけろとね」  あてこするようにリューは応じた。 「あら、クリブがどうしたの。クリブの町にも寄ったの」  そばに来たサイダが話に入ってきた。彼女は朝からずっとエリアードを見つめ、何か話のきっかけをつかもうとしていた。 「寄ったには寄ったが、一日いただけだったよ」 「あそこの市長はお客が好きなのよ。半年くらい前に寄ったときには、三日も|宴《うたげ》をはって|歓《かん》|待《たい》してくれたわ。|踊《おど》ってあげたら、代金もはずんでくれたし」  何も知らないサイダは、クリブの思い出話をはじめた。  リューは苦笑いしながら、彼女を|相《あい》|棒《ぼう》に押しつけ、前方にいた自称|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》のところに近づいた。 「いいんですか、あの人とサイダをほうっておいて」  詩人は状況を見て、小声で尋ねた。 「人の|恋《こい》|路《じ》を|邪《じゃ》|魔《ま》する|不《ぶ》|粋《すい》な奴だと、これ以上は思われたくないからね。美女にうらまれるのはつらいものがある」 「シェクにいたころは、もう追っかけるのをやめたのかと思ってましたけど、旅となったらもとにもどりましたね。オラールさんもまだ彼女に|執着《しゅうちゃく》してるみたいだし」  あいかわらず詩人は|批《ひ》|判《はん》|的《てき》に言った。 「次の町に着くまでの|退《たい》|屈《くつ》しのぎじゃないかと思えてくるな、あの連中を見ていると」  リューは小さくため息をついた。 「同情するな、あなたには」 「相棒がもてるのは今にはじまったことじゃない。こうした役まわりは慣れてるさ」 「わたしはいちおう、詩人と名のっていますから——わかりますよ、あなたがたが困っておられるのが」  思いきったように詩人は言いだしたが、すぐに語尾をにごした。 「何がわかったんだ、その詩人の直感で」  金の眼に陽射しをやどらせて、リューは口もとを少しゆがめた。 「シェクの|居《い》|酒《ざか》|屋《や》に、おふたりでいらしたでしょう。そのときのあなたがたのご様子を見ていて、よくわかりましたし、感動すらおぼえましたよ——あなたがたが、互いに深く愛しあっていて、ほかに誰も入る|余《よ》|地《ち》などないということが」  詩人は|真《ま》|面《じ》|目《め》そのものだったが、リューは|砂《すな》|馬《うま》のほうに身をかがめて笑いはじめた。  詩人はそんなふうに笑われたので、口にしたことを|後《こう》|悔《かい》した。 「——たいした直感だ、励ましとして受けとっておこう」  |手《た》|綱《づな》をにぎりなおし、真顔になってリューはこたえた。 「もっと腕があがったら、あなたがたのことを詩にして歌いたく思ってます。今はまだ|未熟《みじゅく》で、うまくできませんけど」  また笑われそうなので、詩人は聞きとれないくらいの声でささやいた。 「どんな詩にしてもいいが、名前はふせておいてくれ。東方の国では死に|値《あたい》する罪だというところがあるからな」 「ええ、もちろんです、月の|賛《さん》|歌《か》になるはずですから——あなたがたは金と銀の月のようだ。月の合を待ちわびる、ふたつの美しい月の詩をつくりたく思ってます」  酔ったように詩人は語った。リューが笑わずに聞いてくれたのが、彼はうれしくてならなかった。 「月は三つあったのを、知っているか、金色と銀色のほかに、もうひとつの月があったのを」  穏やかにリューは問いかけた。 「それは何かの謎かけですか、あなたがたがもともとは三人で旅してらしたとかいう」  詩人はけげんそうに彼を見つめていた。 「いや、言葉どおりの意味だよ。以前に月はふたつではなく、三つの月が存在したという伝承があるんだ」 「聞いたことがありません。でも本当だとしたら、興味深い話ですね」 「詩人の想像力を少しでも刺激できたら、わたしとしてもうれしいよ」  なんということもないように、リューはしめくくった。  |野《や》|営《えい》|地《ち》ではひろい天幕はもちいず、めいめいが近くにある木のうろや茂みの中や、|崖《がけ》|下《した》のくぼみをさがし、寝袋にもぐりこんで夜をすごした。  一行が眠るまんなかあたりでは、夜どおし|焚《た》き|火《び》を燃やし、日ごとに交替するふたりの見張りをおいて、|野獣《やじゅう》や|盗《ぬす》|人《つと》を|警《けい》|戒《かい》した。  リューは二日めの夜に見張りの番を割りあてられた。  もうひとりの見張りは|壮《そう》|年《ねん》の商人だった。  見張りの順番はハルシュ老がすべて決めているようで、その組みあわせには誰も|文《もん》|句《く》をつけなかった。  夕食のときからシェクで仕入れた酒を飲んでいた商人は、若いリューに見張りを全面的にまかせ、いびきをかいて早々に寝いってしまった。  彼は|仕《し》|方《かた》なく、眠い目をこすって、焚き火と周囲の見張りをつとめていた。  シェクで襲われてから、彼は銀をのばして|編《あ》みこんだ胴着をつけていた。暑い地方に来てからはしばらく着こむのをやめていた防具である。  武器類も商人の護身用でない上質のものを、シェクの市場で買いもとめた。  こうしてひとりで見張りに立っていると、シェクで準備したものが心強く感じられる。  銅の仮面の男が手にしていた幅広の長剣を、あれからリューは何度も思い出した。最高級の|鋼《はがね》を、|名《めい》|鍛《か》|冶《じ》|師《し》が|鍛《きた》えあげたようなすばらしい長剣だった。  |一《いっ》|介《かい》の|放《ほう》|浪《ろう》|者《しゃ》として旅しているはずだったが、すぐれた武器は、長い戦いの中に身をおいたことのある彼を刺激した。  予感に似たものだったかもしれない。シェクで|遭《そう》|遇《ぐう》したようなことは、これから先に何度もあるのではないかという。  仮面の男は、また会えるようなことを確信をこめた口ぶりで言っていた。  とんでもないと彼は首をふったが、薄雲のような不安はさっていかない。  たったひとりで黒々とした木の影に|縁《ふち》どられた夜の|闇《やみ》を見つめていると、ふだんは考えないさまざまなことが、いやおうなくうかんできた。  今夜は月も見えなかった。  |相《あい》|棒《ぼう》はよく眠っているだろうかと、リューは|焚《た》き|火《び》の向こうの茂みの密集したあたりに目をこらした。  あるいは彼女とともにすごしているか。  彼はすぐに眼をとじ、そのたぐいの想像はやめることにした。  エリアードはその夜、サイダを横にして、自分の|優柔不断《ゆうじゅうふだん》ぶりに|嫌《けん》|悪《お》をおぼえていた。  リューが見張りに出たところを見はからって、彼女はそっとしのんできた。  ふたりが同じ夜に組まないよう、彼女がハルシュ老に頼んだのではないかとうたがいたくなるような|嬉《き》|々《き》とした態度だ。 「あたしの|踊《おど》り、見にきてくれた?」  シェクでの思い出話のついでに、サイダは尋ねた。 「人が多くて近づけなかったから、遠くでながめていたよ。オラールのように、観衆をかきわけていく気力がなくて」  素直にエリアードは応じた。  なんのこだわりもないその言い方に、サイダはわずかに表情を曇らせた。 「シェクの舞台が成功したのは、あなたのおかげだわ——天上の月に向けて踊ったの、きれいな月に捧げようと」  そうつぶやいて、彼女はいっそう身を寄せた。  彼がサイダを|拒《こば》めないのは、拒む理由がないからだ。  たまにうらみがましいことを言うときもあったが、実際に彼女が求めるのは、ほんのひとときの快楽以上のものではない。  純粋に彼を欲しているから、それを行動にうつしているだけのようにみえた。銀の月が欲しかっただけだと、彼女自身も言っていたように。  もしサイダが、なんらかの将来の約束や、愛の言葉や|誓《ちか》いを求めてきたら、彼はこれまで言いよってきた女たちのように拒むことができた。  しかし彼女は、そうしたそぶりをいっさい見せない。  自由を求めて|踊《おど》り|子《こ》をしている彼女らしい|潔《いさぎよ》さかもしれなかった。  特別な愛情もなく、その美しい|肢《し》|体《たい》にそれほどひきつけられているわけでもなかったが、彼女はいつも確実に彼を楽しませてくれた。  一行の者たちが|嫉《ねた》みの目で見ているように、彼はわが身の幸運を感謝すべきだったのかもしれない。  |拒《こば》むこともかなわず、遊びとしてわりきることもできずにいるのが、今の彼の状況だった。  |相《あい》|棒《ぼう》も|黙《もく》|認《にん》しているのだから、|自《じ》|己《こ》|嫌《けん》|悪《お》など感じることなく積極的に楽しめばいいと思うのだが、根が|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》な彼にはなかなかできなかった。 「シェクで別れなくてよかった——セレウコアまではいっしょにいられるのね」  その夜、サイダの言葉でもっとも印象に残ったのはそれだった。  彼の腕の中で、想いをこめて彼女はそうつぶやいた。  セレウコアに着いたらどうなるのだろうと、彼は考えた。けれどそんな先のことは何ひとつ思いうかばなかった。  疲れもあって、彼はそのまま寝いってしまった。  夜が明けて、寄りそうように眠っている相棒と彼女を見つけたときは、リューもあまり穏やかではなかった。  踊りで求愛されたときにはむしろ彼がすすんで送りだし、その後も多少の|皮《ひ》|肉《にく》は言ったが本気でとがめたことはない。  相棒がサイダに、ほとんど特別な感情をいだいてないのはわかっていたし、火遊びならばいちいち気にするのは馬鹿げていると彼は思っていた。  見張りに立ったときも、こうした状況になるのは予想がついていた。  しかし、相棒の青白い身体に巻きついた女の浅黒い腕をまのあたりにして、彼は抑えきれないほどの|嫉《しっ》|妬《と》をおぼえた。自分でも不思議に思うほどの。  まだ眠りをむさぼるふたりにそれをぶつけたくなかったので、彼はくすぶっている|焚《た》き|火《び》のそばにもどった。  勝手なものだと、リューは焚き火の前にうずくまった。  けしかけたのは彼だったし、黙認してつきはなしたのも彼自身でしたことだ。今さら何も言える立場ではなかった。  みなが起きだしてくるころまでに、なんとか彼は表向きの平静さをとりもどした。  しかし胸をさいなむような光景はずっと消えずに残り、彼はエリアードに近づかなかった。 「元気がありませんね、お疲れですか」  |相《あい》|棒《ぼう》のふだんとちがう様子に気づかなかったわけではないエリアードは、次の|野《や》|営《えい》|地《ち》に落ちつくとそう話しかけてきた。 「——徹夜の見張りがこたえたんだ」  リューは力なく応じた。  それはまんざらごまかしでもなく、徹夜あけで張りつめていたところに受けた|衝撃《しょうげき》だったから、よけいに強くひびいたのはまちがいない。 「ここ二日みていると、ふたりも見張りをたてる必要があるのかと疑問に思えてきますね。それほど|警《けい》|戒《かい》すべきことはないようだ」 「さあ、何かそれだけのわけがあるんだろうよ——おまえにも見張りの番がまわってきてるのか」 「明後日の夜らしいですよ。ハルシュ老の従者がそんなふうなことを言ってました」  |焚《た》き|火《び》の準備をしている黒っぽい顔の若者を、エリアードはちらっと見た。  老人とその従者は、荒れ地のときと同じように、一行から離れた場所で|野宿《のじゅく》している様子だ。  夕食の前に姿をけしてしまうので、ハルシュ老がどのあたりで眠っているのか、見張りに立った者ですらよくわからなかった。  そんな|排《はい》|他《た》|的《てき》な秘密主義のところも、シェクの宿でハルシュ老が言っていた旅の真の目的のためなのかもしれない。  けれど一行の者たちは、老人が何か貴重なものを運んでいることも、この隊商が別の使命を負っていることにも気づいてないようだ。 「見張りの番を割りふったのが誰だとしても、何かわたしに対する悪意を感じるな」  聞こえないくらいの小声で、リューはつぶやいた。  エリアードは|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》そうに、そんな彼を見つめている。 「徹夜でお疲れなら、無理をいってもいけませんね。今夜は早めに寝られたほうがいい」  エリアードは気づかって言ったつもりだったが、リューの中では昨夜からのくすぶった思いに火がついた。 「おまえにとってはそのほうが|好《こう》|都《つ》|合《ごう》だろうな、忠告にはありがたく従うよ」 「ちょっと待ってください、好都合とはどういうことですか」 「それ以上は言わせるな——ただでさえ、自分の|鈍《にぶ》さと馬鹿さかげんに|嫌《いや》|気《け》がさしているんだ」  すぐに|後《こう》|悔《かい》してリューは横を向いた。  エリアードはやっと、相棒が何にわだかまりをだいているのかわかった。  昨夜の逢いびきのことなど、彼はすっかり忘れてしまっていた。サイダがそれを知ったら、悲しむだろうが。 「——わたしも、自分の|優柔不断《ゆうじゅうふだん》さには|嫌《けん》|悪《お》をおぼえていますよ。|拒《こば》む理由がないからといって、|誘《さそ》いに応じてきたことに」 「とがめているわけではない。|嫉《しっ》|妬《と》|深《ぶか》く、おまえを|縛《しば》りつける気もないよ。今さら|宗旨《しゅうし》がえはしないから安心しろ」 「あなたも|頑《がん》|固《こ》な人だなあ。素直に不快だからやめろといってくださったら、彼女とは視線もあわせないようにしますよ」  言葉の内容にそぐわず、エリアードはうれしそうだった。 「そんなことはできないだろう。当分はともに旅する仲間だ」 「たとえのひとつですよ——これですっきりしました。ちゃんとした拒む理由ができましたからね。あなたを苦しめたくないという理由が」 「苦しんでなどいない。寝不足で|過《か》|敏《びん》になっているだけだ」 「ではそういうことにしておきましょう。ところで——ここに来る途中で見かけた、銀の鏡のような池をおぼえてるでしょう。少し距離がありますけど、夜の散策に行ってみませんか」  今にも|踊《おど》りだしそうなそぶりで、エリアードは誘った。  夕暮れ前に通りかかったときから考えていたが、|相《あい》|棒《ぼう》があまり疲れている様子なので、言いだすのを遠慮していたのである。 「今夜だけは、あなたもわたしも見張りの義務はない。とくにほかの仕事もなさそうだし、この機会をのがしたら、アルルスまでふたりきりになれそうもありませんよ」  素直にリューはうなずいた。  どこか気がとがめるところがなかったわけではないが、昨夜はひとりで見張りをつとめたときも危険らしい危険はなかった。長い時間でなければ、一行から離れて自由を味わってもいいだろうと。  荒れ地でひろわれた恩から、隊商の中でさだめられた規律にきちんと従ってきたが、気ままな旅の暮らしが身についてしまった彼らには|窮屈《きゅうくつ》で|仕《し》|方《かた》ないところがあった。 「あなたも徹夜でお疲れだし、なるべく早くもどってきましょう」  相棒の気持ちを読みとって、エリアードはそう言いそえた。  自称詩人にだけは抜けだすことを伝え、ふたりは鏡のように見えた池の散策に向かった。  昨夜とちがって、銀色のほうの月が大きく空にかかっていて、あたりの道は|白夜《びゃくや》のごとく明るい。  |潅《かん》|木《ぼく》の茂みの中からはときどき小動物らしい影がよぎり、他の旅人たちの天幕や|焚《た》き|火《び》もかいま見えた。  ふたりはまわりに用心をはらいながら、かろやかに小道を駆けていった。|砂《すな》|馬《うま》に乗ってばかりの旅で、足は少しばかりなまっている。  まばらになった木々の向こうに、白銀に輝く池が見えてきた。  夕暮れ前に見たときは|翳《かげ》りかけた陽射しを受けてきらめいた池は、夜に見ると|天鵞絨《ビロード》のような月光で|神《しん》|秘《ぴ》|的《てき》に照りはえていた。  湖と呼べるほど大きくはないが、対岸には|霞《かすみ》がかかっている。  彼らは岸をまわって、なだらかな坂になっているところから池の近くにおりた。  のびたやわらかな草のあいだには、月の花と呼ばれている黄金色の|釣《つ》り|鐘《がね》形をした花がゆれていた。  昼のあいだはなんの|変《へん》|哲《てつ》もない黄色い花だったが、月明かりのもとでは|金《きん》|粉《ぷん》をふったように輝くので知られている。  |摘《つ》んでしまうとその輝きは失われるので、花を|愛《め》でるには夜中に咲いているところを見つけなくてはならない。  花はほんの数日しか咲かず、これの輝いているところを見つけた者は幸運に恵まれるともいわれていた。 「今夜はわたしたちにとって、幸いある夜になるはずですよ。この花も保証してくれている」  そんな言いつたえをふまえて、エリアードはほほえんだ。 「本当にそうだといいな。これまでは|災《わざわ》いが多すぎた」  池のほうに足を向けて、リューは草を背にして寝ころんだ。  天空高くに月がうかんでいた。しかし月は|野《や》|営《えい》|地《ち》を出たときのように銀色ではなく、黒ずんだ雲にすっぽりとおおわれている。  彼はそれが|不《ふ》|吉《きつ》のしるしのように思えてきたが、隠れた月のかわりに銀色の彼の|相《あい》|棒《ぼう》がそばにいた。  彼の視界から月を隠すように、きらめく銀の髪が|頬《ほお》にかかり、銀の|瞳《ひとみ》が近づいて、|唇《くちびる》があたたかくふさがれた。 「あなたの眼は、月の花のようだ。昼間は黄色みを帯びて、夜には|黄《こ》|金《がね》|色《いろ》にきらめいている」  エリアードはささやいた。 「いい|比《ひ》|喩《ゆ》だ、修業中の詩人にあとで教えてやるといい」  リューは青白い頬から|顎《あご》に指をはわせた。  くすぐったそうにエリアードはそれをはらいのけ、上から押さえつけた。 「ほかの連中のことなど口にするのはよしましょう——今、このひとときだけは」  返事を待たず、エリアードはもう一度、相棒の唇をふさいだ。その後はどちらからもそれを離そうとしなかった。  いつのまにかリューは眠りこんでいた。  その背中に腕をまわし、とりとめもない思い出話をしていたエリアードは、かなり時がたってからそれに気づいた。  いつものように|横《よこ》|槍《やり》を入れず、いやに静かに聞いているなと思っていただけに、彼は少し腹をたてた。  まだ夜は深く、月は雲に隠れたままだ。  起こそうかとも思ったが、リューの眠りは深く、息をとめているかのように安らかだったのでやめることにした。  昨夜の見張りでよほど疲れていたのだろう。  無理に池まで|誘《さそ》って悪かったかと、エリアードは|後《こう》|悔《かい》した。  こうして静かに眠っていると、リューは|年《とし》|相《そう》|応《おう》の、二十歳そこそこにしかならない若者に見えた。  その|猛《たけ》|々《だけ》しい金色の眼をとじていると、白いやわらかな頬は少年のようでもある。  十五歳のときには、すでに軍勢を|率《ひき》いて、|熾《し》|烈《れつ》な戦いの中に身をおかなければならなかった経歴が、彼を年よりも世なれてみせていた。  副将として、また忠実な第一の従者として|仕《つか》えてきたエリアードは、彼の|経《へ》てきたなみなみならない年月を、誰よりも身近で知っていた。  主人と部下としてではなく、ともに気ままな旅をする|相《あい》|棒《ぼう》として、幾多の夜をすごしてきたが、こんなに安らかな眠りをむさぼる彼はめずらしい。  ふだんの彼の眠りは浅く、|獣《けもの》のようにささいな物音にも目をさますことが多かった。  心ゆくまで眠らせてあげようと、エリアードは決めた。  なるべく早めに|野《や》|営《えい》|地《ち》までもどるつもりだったが、相棒を起こす気にはどうしてもなれなかった。  夜が明けてもまだ眠っていたら、それでもかまわないと彼は思った。  過去のことや、先のことをいろいろ考えているうちに、エリアードも寝いってしまった。  ふたりは折りかさなるようにして、空が白むまで眠っていた。 「——起きろ」  先に目がさめたリューは、相棒の肩をゆさぶった。 「向こうの様子がおかしい——エリー、起きるんだ」 「おかしいって、何が……」  まだ夢のつづきのように、エリアードはぼんやりと彼を見つめた。 「野営地のほうから煙があがっている。|焚《た》き|火《び》の煙ではない」  リューは相棒に上着を押しつけた。 「火事でもあったんですか」 「わからないが、急いでもどろう」  胸さわぎにリューは青ざめていた。  |不《ふ》|吉《きつ》な予感は昨夜からあった。にもかかわらず、ついぐっすりと眠りこんでしまった自分に腹をたてていた。  夜明けの道を、彼らは全速力で駆けた。  高木の枝に隠れて、彼らのいる道の位置からは野営地の煙も見えなかった。  騒ぎが起こっている物音らしいものも聞こえない。  木々のあいだが半円形にひらけた野営地は、目をそむけたくなるようなありさまだった。  ふたりは言葉もなく、|無《む》|残《ざん》な光景の前で立ちつくしていた。  池からかいま見た煙は、死者を積みあげて焼いたもので、今も黒い小山のようになってくすぶっていた。  すでにどれが誰のものかわからなくなった|死《し》|骸《がい》はゆうに十以上はあった。  |砂《すな》|馬《うま》たちと、それにゆわえつけてあった荷物類はすべて持ちさられていた。  死者にも、草むした地面にもおびただしい矢がつきたっていることからも、かなり大人数の|盗《とう》|賊《ぞく》|団《だん》に襲われたらしい。  悲鳴をあげるまもない、あっというまの襲撃だったのだろう。争ったり、抵抗したりした|形《けい》|跡《せき》はほとんどない。  茂みの中には、サイダを上からかばうようにして倒れているオラールが見つかった。  ふたりとも、とうにこときれていたが、表情は眠るように穏やかだった。 「なんて……なんてことだ……」  |拳《こぶし》をにぎりしめ、しぼりだすようにエリアードはつぶやいた。  リューはいち早く、かなしばりにあったような|衝撃《しょうげき》から身をふりほどいて、まわりの|潅《かん》|木《ぼく》の茂みをかきわけはじめた。  死者の数は見たところ、隊商の人数よりも少なく、どこかに逃げこんだ者がいるにちがいなかった。  矢を背中に受けた商人のひとりが見つかり、木のうろには頭から倒れこんでいる自称詩人も見つかった。  リューは|膝《ひざ》をついて、詩人を抱きおこした。  まだわずかに息のあった詩人は、薄く目をひらいてリューを見つめた。 「……ふたつの月……」  詩人はつぶやいた。 「天上の……ふたつの月にも比する……かの輝き、かの|眼《まな》|差《ざ》し、金と銀の……」  それは彼が、ふたりにちなんでつくった詩らしい。 「まだ……これだけ……」  残念そうにうめき、詩人は目をとじ、首をたれた。  リューはそっと詩人の身体をおろし、地面に横たえた。  彼は気をとりなおし、あきらめずに粘り強くあたりをさがした。  |相《あい》|棒《ぼう》を手伝おうかとも思ったが、エリアードはまだその場から動けなかった。  彼のほうが隊商の者たちとのかかわりが深かったし、池を|散《さん》|策《さく》しようと|誘《さそ》った責任を感じていた。  結果的には、池に行ったことがふたりを救うことになったのだが、仲間を見捨てて逃げたような思いにさいなまれていた。  池のほとりで見つけた月の花は、言いつたえどおりに幸運をもたらした。彼らふたりだけが命びろいするという、なんとも|後《あと》|味《あじ》の悪い幸運だったが。 「——エリー、エリー」  |野《や》|営《えい》|地《ち》からかなり離れた茂みから、リューは声を張りあげた。 「水か酒をさがしてきてくれ——ハルシュ老はこちらだ、まだ息がある」  それで|呪《じゅ》|縛《ばく》がとけたように、エリアードは足が動いた。  |大《おお》|柄《がら》な身体に何本かの矢を受けていたが、老人はまだ死んでいなかった。  リューは老人の前にかがみこんだ。  人の|気《け》|配《はい》に、|土《つち》|気《け》|色《いろ》の顔がわずかに動いた。老人は衣服まで、ほとんど|剥《は》ぎとられていた。  木の根もとにころがっていた|酒《さか》|瓶《びん》を、エリアードは見つけてきた。  昨晩のあいだに誰かが飲んでいたもののようで、底のほうにわずかだが残っていた。  |裂《さ》いた布に酒をしみこませ、リューはそれを老人に|嗅《か》がせ、口をしめらせた。  ハルシュ老は重いまぶたを押しあげ、目の前のリューの姿をみとめた。すると老人の|頬《ほお》には、かすかなほほえみのようなものがうかびあがった。 「……予言……本当だった……」  あえぐようにハルシュ老はつぶやいた。 「よぶんな口はきくな、言いたいことはわかっている。わたしたちは、単なる旅の|護《ご》|符《ふ》などではなかったんだ——予言の正しい解釈は、わたしたちによってしか、旅の真の目的をはたしえないということだった。あんたの言いたいのはそれだろう」  老人はうなずいた。|皮《ひ》|肉《にく》な笑みはまだ、|死《し》|相《そう》のはっきりとあらわれているその顔に張りついていた。 「宝とやらは無事なのか。もしも無事ならば、セレウコアでもどこにでも責任をもって届けてやろう——あんたのその表情から、無事だということはわかる、さあ、どこだい」  軽い調子で、リューは尋ねた。  その言葉のうらには、一行をむざむざと死なせてしまった自責の思いと、死にゆこうとする老人への思いやりがこめられていた。 「身体の下の地面に……|埋《う》めてある」  老人の笑みは濃くなり、おかしくてならないようにつづけた。 「まちがえて……首にかけていた宝石飾りを……やつらは奪っていった……ひと財産になる高価なものだが……真の宝はちがう……一見、宝とは思えぬように……仕上げてある」 「抜け目がないな、たいしたものだよ——襲った連中は、あんたが運んでいる宝のことを知っていて襲ったんだな」 「皇帝が……説明してくださるだろう……これを」  ハルシュ老は骨ばった指をさしのべ、|鷲《わし》の頭のような|紋章《もんしょう》入りの指輪をわたした。 「関門所で……これを見せるといい……皇帝の使いのしるしだ」 「わかった、ほかには?」  老人は静かに首をふった。  リューは、老人に酒の残りを飲ませてやった。 「クナで……あなたがたを助けて……よかった……」  まもなくハルシュ老は安らかに息を引きとった。  老人の使命が彼らによってはたされることを確信しているように、その|最《さい》|期《ご》は満足そうだった。  ハルシュ老の身体の下には、にぎりこぶし大の|雫《しずく》形をした|鉛《なまり》のかたまりが埋めてあった。 飾りもなく、ただ型をとってかためただけの|武《ぶ》|骨《こつ》なものである。  最初は彼らも、それが宝とは思えず、ほかに別のものが埋まっているのではないかと、あたりを掘りかえしてみた。  しかし何も見つからなかった。 「鉛にしては軽いみたいだ、中身は鉛じゃない」  エリアードは両手に乗せ、重さを確かめていた。 「ただの鉛でもかまわないさ。どんなたぐいの宝だろうと、わたしたちはそいつを運ぶだけだ」 「ええ、それが今のわたしたちにできる罪ほろぼしですね、せめてもの——」  |野《や》|営《えい》|地《ち》をふりかえって、エリアードはにじんできた涙を指先ではらった。  死者たちはそのままにして、彼らはその場を離れた。  宝をまちがえたと気づいた|盗《とう》|賊《ぞく》|団《だん》が、またやって来るかもしれない。生きのびた仲間がいたと知られるのは、今後のためにもまずかった。  荒れ地で合流し、親しくなった隊商は全滅し、彼らはまたふたりきりになった。なんとも胸の痛むような別れ方だった。  やっかいごとにはかかわらないというのが彼らの信条だったが、今度ばかりは見すごして通りすぎることができなかった。  やっかいな使命に首までどっぷりとつかって、彼らはアルルスを、そしてその先のセレウコアを目ざした。 [#地から2字上げ]『ムーン・ファイアー・ストーン2』に続く     あとがき “ムーン・ファイアー・ストーン”五部作の第一弾をお届けします。  |井《い》|辻《つじ》さんの立派な『解説』(本電子書籍では割愛)のあとに、こういうものを|載《の》せるのは|蛇《だ》|足《そく》かなと思うのですが、昔から作者の『あとがき』を読むのが楽しみだった私としては、やはりないのはさびしいのでつけました。  かつての私のような読者が大勢いたせいなのか、今や文庫にはたいがい、『解説』か『あとがき』がつくようになりました。海外のペーパーバックにはほとんどついていないので(最後のページのすぐ隣が裏表紙なんてのはざらです)、これは日本独特の付録つきおまけ感覚なのかなと思っています。  年月が流れ、読み手から書き手に立場が変わったわけですが、いざ『あとがき』なるものを書きはじめると、いったい何を書くべきか悩みます。ずっと『あとがき』が大好きで、『あとがき』だけを立ち読みした本も多々あり(|真《ま》|似《ね》しないでくださいね)、『あとがき』は何をどのように書くべきか、『あとがき』とはどうあるべきか、などと書きはじめると、それだけで埋まってしまいそうです。  これは私の最初の本なので(ノヴェライゼーションをのぞいて)、とりあえずは身近なところからはじめてみることにします。  八九年五月に、このシリーズ(Tales From Third Moon・三番めの月の物語)はふいにうかびました。  時間をかけて構想を練ったり、あたためていたりではなく、本当に突然、|怒《ど》|濤《とう》のごとく押しよせてきて、それまで書いていたものをすべて|薙《な》ぎたおすほどに、頭の中を駆けまわりました。  天からふってきたという表現がふさわしく、種はまかれてはいたけれど、芽を出す|気《け》|配《はい》はなくほうっておいた荒れ地が、ある日、黄金の実りの畑に変わったようなものです。  当時、某出版社にいた私は、仕事そっちのけで、ひまをみつけては喫茶店にいりびたり、|奔流《ほんりゅう》のような物語のイメージを書きとめていました。見なれているはずの|街《まち》の光景が、すべて私に向かって語りかけてくるような、不思議な日々でした。  それまでの私は、ときどき書評や短編を発表するくらいの|怠《たい》|慢《まん》な書き手でしかなかったのですが、人が変わったように書きまくりました。眠る時間も惜しんで書いていたので、しばらく身体をこわし入院するはめになったくらいです(その前からの|不《ふ》|摂《せっ》|生《せい》がたたったのかもしれませんが)。  |静《せい》|養《よう》を理由にして、私は仕事をすべてやめ、八九年の終わりから九〇年にかけて、このシリーズと、もうひとつの未完のままでほうっておいた長編ファンタジー(九一年夏あたりから某社で出る予定です、たぶん)に専念しました。  健康だけが自慢だった私も、入院でいささか人生観が変わりました。この先、何が起こるかわからないし、私に許された時間もそう長いものではないかもしれないという危機感が、遅まきながら実感となったという感じです。とにかく|悔《く》いの残らないよう、書きたいものをちゃんと書いておこうと心に|誓《ちか》いました。  そのかいあって、ふいに天からふってきたこのシリーズも何本かできあがり、こうしてめでたく本になりました。作者自身がいうのは気恥ずかしいのですが、本当に大好きなシリーズで、この物語を書いていたときだけでじゅうぶん幸せだったのに、本になって多くの人に読んでもらえるなんて最高の気分です。  この本が第一巻にあたる“ムーン・ファイアー・ストーン”は、五冊完結で、二巻以降は『銅の|貴《き》|公《こう》|子《し》』『|極《ごく》|彩《さい》の都』『月光の|宝《ほう》|珠《じゅ》』『青い都の婚礼』とつづく予定です(タイトルは変わるかもしれません)。  当初は上下巻くらいにまとまる長編のつもりだったのですが、思いがけなく五分冊の大長編となってしまいました。  このシリーズに登場するふたりは、とてもヒーローとはいえた|柄《がら》ではなく、特別な使命をはたすわけではなく、選ばれた者でもなく、正義の味方でもありません。好んで冒険におもむいたりもしませんし、野望に燃えたりしてませんし、ばったばったと敵を倒したりもしません。  けれど私は、ふたりの軽さといいかげんさが大好きです。自由に気ままな旅をつづけることだけにこだわる彼らが、とても身近に感じられます。  基本的にこのシリーズは、一話完結で、時の流れにそってではなく、短編・中編・長編・大長編をおりまぜて、順不同に書いていくつもりです。すでにいくつか書きおえているものもあり、自家製本として小冊子にまとめた短編もあります。  少し、この場を借りて、未発表作および構想分を紹介させていただたきます。一巻めの『あとがき』は、とても盛りだくさんです。  霧にうもれた都に迷いこんだふたりが、血をすする都の守り神の|生《い》け|贄《にえ》にされかかる中編『霧深き|女《め》|神《がみ》の都』、樹木の精が|棲《す》む深い森で泣いている|乙《おと》|女《め》と出会う短編『|深緑《しんりょく》の|騎《き》|士《し》』、|白魔術《しろまじゅつ》の都で|占《うらな》い|師《し》の店を出して|大繁盛《だいはんじょう》する長編『魔術師の弟子』、謎の美少年をひろってひどいめにあう中編『金色の少年』。タイトル・長さ未定のものとしては、第三の銅の男とともに船出する海洋冒険編、|山《さん》|賊《ぞく》の|頭領《とうりょう》にまつりあげられて宝さがしにおもむく話、不思議な力をもつ|薄《はっ》|幸《こう》の少女を救いだす話など、いろいろあります。  |神出鬼没《しんしゅつきぼつ》の金銀のふたり組は、これからもさまざまな地で、さまざまな出来事に遭遇します。ほかにも構想だけはたくさんあって、いくつ書けるかわからないのですが、末長くのんびりとつきあっていこうかと思っています。  読んでくださる方々も気楽に、この|能《のう》|天《てん》|気《き》な旅につきあってくださったら、書き手としてはこのうえない幸せです。  末筆になりましたが、素敵な『解説』をつけてくださった|井《い》|辻《つじ》さん、どうもありがとうございました。偏見や誤解をおそれて、発表するのをためらっていた私に、多大な励ましをくださったことにもかさねてお礼を申しあげます。  少しも|眉《まゆ》をひそめたりなさらず、あたたかい理解(!)をしめしてくださった講談社の小林さん、どうもありがとうございます。いろいろ骨折ってくださって感謝にたえません。  お|忙《いそが》しいなかで、イラストをひきうけてくださった|紫堂恭子《しとうきょうこ》さん、望外の幸せでした。これを書きはじめた一年ほど前から、もし絵をつけていただくならこの方と、ひたすら思いつづけていたのです。赤坂プリンスホテルでお会いできたときは、長年の片恋が実ったような気持ち(!)でした。  日刊連載と称して、二十枚ぐらいできあがるとそのつど読んでもらった同居人にも、感謝を捧げます(ただファミコンのRPGの登録名に、本シリーズのキャラクター名をつかうのはやめてください)。  では“ムーン・ファイアー・ストーン”の第二巻で、またお会いしましょう。次回の『あとがき』は、ヒロイック・ファンタジーについて書く予定です。   九一年四月 [#地から2字上げ]|小《お》|沢《ざわ》 |淳《じゅん》 本電子文庫は、講談社X文庫ホワイトハート(一九九一年四月刊)を底本といたしました。 |金《きん》と|銀《ぎん》の|旅《たび》 ムーン・ファイアー・ストーン1 *電子文庫パブリ版 |小《お》|沢《ざわ》 |淳《じゅん》 著 (C) Jun Ozawa 1991 二〇〇一年一二月一四日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001     e-mail: paburi@kodansha.co.jp 製 作 大日本印刷株式会社